加藤好啓 国鉄夜話

国鉄時代の写真並びに時刻表などを中心にアップさせていただきます。 国鉄に関する資料等も順次アップさせていただきます。 取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に blackcat.kat@gmail.comにメール またはメッセージ、コメントにて お待ちしております。

日本国有鉄道の研究家として、「国鉄があった時代」というサイトを運営しております。
blackcatこと加藤好啓です。
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かつての乗換駅だった、紀伊中ノ島駅
現在では、阪和線の紀州路快速【実質的な普通電車】しか停車しない紀伊中ノ島駅ですが、元々は和歌山線と阪和電鉄を繫ぐ駅として華々しく開業しました。
駅前には旅館が数軒有るなど小さな駅前広場ではありましたが、駅前の賑やかさは十分ありました。
現在は一部だけが残ったホームに、ここに線路があったことを連想させてくれます。


昭和47年2月の時刻表ぁらみる、和歌山線・紀勢本線のダイヤ抜粋
紀伊中ノ島駅の和歌山線の列車扱が無くなったのは実は昭和47年3月のダイヤ改正からで、それまでは殆どの列車は紀伊中ノ島を経由して和歌山市まで走っていたのでした。
そこで、当時の時刻表を参照しながら当時のダイヤをアップします。


上の表は、和歌山市~紀伊中ノ島・和歌山駅間の列車を抜粋したものです。
参照した時刻表は、昭和47年2月号であり、和歌山線の列車が和歌山駅に統一される直前の時刻表をもとに作成したものです。
優等列車は赤色で表示、紀勢本線に乗り入れる列車は青文字で、イタリック体にしてあります。
表をクリックして貰うと拡大します。
キャプチャ

昼間は、和歌山駅発着だった和歌山線列車
他にも、紀和駅発の気動車が湊町行きという面白い列車がありました。
それ以外の列車は、王寺止まり
多田、紀伊中ノ島を通る列車は、9:17 紀伊中ノ島駅発の列車以降は、下記の通り、16:21迄有りませんでした。
朝夕の時間帯だけは、従来通りの和歌山市に列車を通すものの、昼間の時間帯は和歌山駅に列車を発着させることで利便性が高いと判断されたのでしょうか。
下表は、先ほどの時刻表の後半部分となります。
キャプチャ2
16:21以降も概ね1時間に1本程度は、紀伊中ノ島駅を通る列車が設定されており、大阪方面からの利用者はここで乗り換えて、和歌山線を利用したのでしょうか。
実際、当時の紀伊中ノ島駅は快速列車が停車する駅でした。
ユニークな列車も走っていた
最後は余談で、紀伊中ノ島駅は関係無いのですが、白浜発京都・名古屋行きという列車が和歌山線を走っていました。
白浜を出た列車が紀勢本線を南下せずに、和歌山まで、更に和歌山線経由で名古屋に向かうというなんとも旅客流動なんて考えて居なかったんだろうと言いたくなるような列車でした。
他にも、恐らく機関区への入出区も兼ねてのダイヤだと思うのですが、和歌山線の列車としては、和歌山市発紀和止まりなんていう列車【紀和駅で、紀和駅始発の紀勢本線列車と接続】がありましたし。
早朝などでは、紀和発湊町【現・JR難波】行きなどユニークな列車等もありました。
あと午前中に出発する列車は、天王寺発着の列車があり、キハ17などに天王寺行きと書かれたサボをつけていたのも懐かしい思い出です。
キャプチャ3

古い時刻表を眺めていると楽しみが絶えません。

紀勢本線非電化時代
紀勢本線は、昭和53年10月に電化されますが、それ以前は紀勢本線は、和歌山操駅までは電化されているものの、それ以外の区間(和歌山市~亀山まで非電化線区で有り、気動車の天下でした。
以前は、キハ17やキハ45などが使われていましたが、関西本線が湊町~奈良間が電化がされると、それまで関西本線で使われていた、キハ35が余剰となり紀勢本線に大量のキハ35・36が流入してきました。

当時の時刻表を参照しますと、基本的に和歌山線は、和歌山駅発着、紀勢本線の列車は、和歌山市発着となっていました。

和歌山市発〇〇行き
さて、紀勢本線の非電化時代は現在のように30分単位での運転ではなく、普通列車は優等列車や貨物列車の合間を縫って走るといった感じで、時間はまちまちでした。
当時の時刻表を確認しますと、手元にある昭和50年の7月号を参照しますと、始発は、5時20分和歌山駅発の普通列車がありまして、これは客車列車と同じで宮前と黒江を通過する列車だったようです。そして、この列車が新宮行き、先ほどの二駅以外は各駅に停車して、新宮には11:50に到着だそうで、6時間半の長距離運行だったわけです。
和歌山市発は、6:30が最初であり、この列車は御坊行きでした。
他にも、客車列車では和歌山市発亀山行きという列車が走っており、和歌山市駅を7:03に出発して執着亀山には20:31・・・12時間半を費やして走る長距離列車が有りました。
当時はこのような長距離列車が数多く設定されており、旅客輸送をしながら荷物輸送も行うという事で、串本駅や新宮駅などで30分停車とかしているのが判ります。
当時の紀勢本線を見ると普通列車よりも特急・急行の本数が多いように感じます。
実際に、時刻表で時刻を確認しますと、概ね一時間に一本なのですが、12時台には発車がない反面、和歌山駅基準で見ると、16:00から18:00の時間帯では四本も運転されていて、バランスの悪さが目立ちます。
16:00から18:00は30分に一本運転
時間を見てみますと、和歌山駅基準で
  • 16:00 周参見行き 338D
  • 16:27 湯浅行き  340D
  • 17:00 串本行き  342D
  • 17:45 御坊行き  344D
時間はバラバラですが、このうちの二本の列車が周参見行きと串本行きという長距離普通列車であったわけで、かつキハ35・36で編成された列車だったのです。
下の写真は電化工事が始まっていますので1976年頃の写真だと思いますが、キハ35・36が編成に加わったのように見えます。なお、この先頭にはキハユニ16が連結されており、これは新聞輸送などを兼ねていたもので、急行きのくに11号の先頭に連結されて、天王寺を下ってくる列車で、和歌山駅で切り離し、和歌山市発の列車の先頭に連結、そのまま周参見まで走るもので、終点周参見には19:26着となっています。
先発する急行きのくに11号は椿行きなのですが、椿までの所要時間で比較すると、その時間差は50分ほどであり、以外と速い(きのくに11号が意外と遅い)ように感じます。

画像は、340Dを撮影したものです。

キハユニ15となっていましたが、記述誤りです、お詫びしてして訂正します。
キハユニ15 ×⇒キハユニ16 〇
Image33402
先頭は、湘南顔の液体式気動車

  • 「さちかぜ」という愛称の歴史
さちかぜと言う愛称は、臨時寝台列車で使われた。
昭和31年運転を開始した、特急「あさかぜ」号の救済列車として、「あさかぜ」号の下り列車は30分後、上り列車は30分前を走った臨時列車で、昭和32年7月20日から8月31日までの間運転されたのが最初とされています。
しかし、「あさ・・」「さち・・」だけの違いのため、誤乗が多発したりしたことから、翌年のダイヤ改正では、運転区間を東京~長崎に変更、列車名も「平和」と改められることとなりました。

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東京~長崎間の特急として、「さちかぜ」の愛称は「平和」に変更されることに。
その後、平和は昭和34年には、20系化されることとなり、愛称も再び変更され、「さくら」と改名されることになり、「へいわ」の愛称はお蔵入りすることに。
こうして、「さちかぜ」の愛称はほんとに短期間だけ使われていたわけですが・・・・

  • 札幌~旭川間に超急行と言える韋駄天列車誕生
昭和46(1971)年、小樽~札幌~旭川間の電化を背景に、北海道内でも人口密度が高い札幌~旭川間の競争力を高めるため、同区間をノンストップで走る、急行列車が設定されることとなりました。
朝8:00に旭川を出発、夕方の17:40に札幌を出発というダイヤで同区間を1時間37分で結んでいました。これは、当時の気動車特急よりも速く、特急でも主要駅に停車していたことを考えるとかなり思い切った設定でした。
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ちなみに使用された車両は711系であり、運転開始初日の車両は以下の編成であったそうです。
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  • ビジネス客に特化した列車として誕生
この列車が設定された背景には、北海道内における自動車保有台数の増加や、道路の整備(冬期間も通行止になることなく通年運行できるようになったこと)で自動車(自家用車)・バスの利用が増えたこともあり、国鉄としても競争力を高める必要があったのです。
当時の国鉄線という部内紙の記事「こちら営業部長」という記事では、下記のように書かれていました。
一部抜粋
一、きびしさを増す環境
・・・農業の近代化と減反、・・等によって、人口の過疎化が著しく、・・・。しかも、マイカーが急激に増加して、40年度97人に1台の割合が、45年度には、16人に1台となっている。他方航空網の発達も著しく、・・・また、道路網の整備も急速に行なわれ、主要道路の冬期間完全除雪体制の確立は、パス、マイカー、トラックの通年運行を可能としている。・・・
二、旅客営業
このような状況にかんがみ・・・マイカー対策としては、 都市間輸送の高速化と短時隔のフリーケント輸送が必要 で、本年7月旭川・札幌間97分のノンストップビジネス超 急行「さちかぜ」を設定した。その結果は非常に好評で 、約100名の誘発を得ることができた
こうして誕生した、「急行さちかぜ」の利用促進を図るため、乗車券と急行券がセットになった、11枚綴りの回数券を発売したとされています。
  • さちかぜは、特急化で発展的解消することに
さちかぜは、ビジネス向けの時刻設定が功を奏したのか利用は好調で。4年後の1975年7月の改正では、一部の「急行かむい」(3往復と)ともに特急化されることとなりました、
可処分所得増加により、特急選択の指向があること、国鉄自身の増収という背景も有るかと思われますが、増発を含め7往復が設定されることとなり、特急「いしかり」は485系電車1500番台が投入されることとなりました。

最後に、

趣味的な部分はここまでとして、以下には個人的に当時の見解を簡単に述べさせていただきます。

wikipedia等を参照しますと、おりしも、PCBの問題も有ったため交流専用電車の投入が遅れたという発言もあります、これは事実としては正しいと思いますが、当局としても増収を急ぎたいという思惑があったと考えます。実際の運転開始は、昭和49(1974)年からの運用開始を目指すとして、485系をひとまず投入しようとしてしますが、結果的には1年間、「特急白鳥」でプレ運転という名目で「いしかり」表示の幕の上から「白鳥」と書かれたシールを貼付していたものが約1年間走りました。
こうした点を考えるときに、当時の組合関係なども考慮する必要があるのでは無いでしょうか。
残念ながら現時点では手元に、当時の動労新聞等の一次資料をと言うべきものがありませんので、推測にしか過ぎないのですが、当時の歪んだ労使関係もこの辺の動きと関係があったと考える方が素直だと考えてしまいます。
特に、新規に車両を開発したとなるとその時点で、面倒な労使交渉などもあったこと、特に北海道地区は伝統的に動労が強い職場であり、運転に関しては非常に強い発言力を持っていたことも考えれば、ひとまず耐寒耐雪装備を強化した485系を投入し、あわよくばそのまま押し切ろうと思っていたように見えます。
実際に、昭和50年7月のダイヤ改正は、組合の反対の影響もあり、本来は7月1日に実施する予定であった改正は18日に延期せざるを得ないなど現在では考えられないような異常な労使関係であったことを考慮すれば、一概に公式の資料だけで、判断することは極めて真実をぼやかせてしまう事になりかねません。

当時の公式見解としては、以下のように「とりあえず投入」したと記述されていますので、本当に間に合わないので、ひとまず入れたのかもしれませんし。
そこまで、組合の反対などは無かったのかもしれませんが、その辺を含めていろいろな視点から考えていくことが重要であると考えてしまいます。

交通技術別冊 1975年版 P29
以下引用します。
5.2函館本線L特急用485系1500番代登場
函館本線の札幌~旭川間にL特急新設計画がたてられ1974年夏から営業開始するために、とりあえず485系特急形交直流電車を一部設計変更して間に合わせることとなり、22両が新製された。この車両は、目下、開発中の特急形交流電車に置き替えられるので一般485系と共通運用できることを条件とし、基礎ブレーキ装置・応急処置システム・主低抗器など一部変更したにすぎず、各形式の定員などは変更していない。
結果的に、従来の485系の耐寒装備を強化した程度(711系のような「雪切り室」を設けなかったことなどが災いして、冬場の運転不能を招くこととなりました。

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