blackcatこと鉄道ジャーナリスト 加藤好啓 国鉄夜話

国鉄時代の写真並びに時刻表などを中心にアップさせていただきます。 国鉄に関する資料等も順次アップさせていただきます。 取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に blackcat.kat@gmail.comにメール またはメッセージ、コメントにて お待ちしております。

タグ:JR西日本



現在、東海道線を走る夜行列車と言えるのは、サンライズだけとなってしまいました。
この列車も、かつての出雲と瀬戸が併結した列車ですが。
今回は、昭和31年当時の時刻表から、しばし見場様に時間旅行していただこうと思います。
昭和31年12月号を参照したいと思います。

さて、その前に昭和31年とはどんな時代だったのでしょうか。
東海道本線が昭和31年11月19日に電化が完成、それに伴うダイヤ改正もあったようです。
昭和31年11月から一部抜粋
http://jnrera3.webcrow.jp/nenpyou/shouwa_JNR/s_31_5.html
  1. 東海道・山陽・九州線 東京~博多間特急「あさかぜ」(2、3等寝台車、食堂車付 所要17時間25分)
    東京~大阪間 急行「なにわ」食堂車付(和食堂付)、
    不定期急行「彗星」(二等寝台車付)、
    京都~熊本間 急行「天草」(3等寝台車付)
    京都~長崎間急行「玄海」(大村線経由・3等寝台付)新設
    京都~広島(呉線経由)・宇野間準急、
    広島~長崎間準急各1往復新設 注:
    東京~博多・都城間急行「げんかい」の都城行きを単独運転、
    西鹿児島へ延長「高千穂」とする。(日豊線経由、2.3等寝台車、食堂車付)
    東京~宇野・大社間急行「せと」の併結をやめ宇野行き「瀬戸」(3等寝台車付)大社行き「出雲」福知山線経由、2.3等寝台車付)を個別運転する。
    東京~佐世保間臨時急行「西海」、
    東京~博多間臨時急行「早鞆」を定期化(いずれも2.3等寝台車、食堂車付)、
    「早鞆」は「筑紫」と改称、呉線経由を山陽本線経由に変更)
    東京~鹿児島間急行「筑紫」は「さつま」と改称。(その後列車自体が消滅)
    東京~大阪間特急「つばめ」「はと」の到達時分を30分短縮、7時間30分とする。
    東京~神戸間急行電車の一部を米原始発としローカル列車を電車化。
  2. 山陰線京都~松江間準急1往復増発
  3. 紀勢線
    新宮~天王寺間準急下り1本増発
  4. 予讃線
    高松桟橋~宇和島間不定期準急1往復増発
  5. 東北・奥羽間
    急行列車 上野~青森間「おいらせ」
  6. 上越・羽越線
    上野~新潟間急行「佐渡」増発。
    上野~青森間不定期急行「津軽」秋田打切り、定期化「羽黒」(3等寝台車付)とする。
    高崎線上野~高崎間通勤列車を主体に電車化。
  7. 日本海縦貫線
    大阪~富山間急行「立山」、
    大阪~金沢間準急一往復新設。
    上野~大阪間急行「北陸」を福井打切りとする。
  8. 北海道線
    函館~札幌間臨時急行「洞爺」を定期列車化「すずらん」と改称。
  9. 田端から田町間線路増設し、山手・京浜東北線の分離運転開始
汐留~梅田間にコンテナ専用列車「たから」新設 11/19
山手線 田端~田町間線増完成。京浜東北線と分離運転開始 11/19

さて、そんな昭和31年は、後に首相になる池田勇人が大蔵大臣に入閣、造船業は12月には生産量世界一になるなど急速にその力を拡大していく時期でもありました。
さて、そえでは前置きが長くなりましたが、昭和31年12月時刻表による急行出雲の、東京から出雲大社・浜田までの紙上旅行をお楽しみくださいませ。
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実は、出雲の表示が見えませんが、丁度綴じ目付近に書かれており、さすがに、昭和31年当時の原本をこれだけのためにばらす勇気がありませんの。
かすかに福知山という文字が読めるかもしれません。
当時の出雲は、山陰本線経由ではなく大阪夜行の救済も兼ねて東京~大阪(福知山線)経由で浜田市に向かっていました。

img452a
急行出雲は、大阪9:16着、9:40発として浜田市を目指すのですが、完全に昼行列車と言えそうです。
当時の編成は2等・3等(2等車は特別2等車付)にB&C寝台ということで旧1等寝台開放室と旧形2等寝台が連結されていることが判ります。編成表を見ると14両の堂々たる編成であったことが判ります。
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寝台車は、大阪で開放していますので宮原で整備されたのでしょう。

9:40に大阪駅を出発すると福知山線を走って、浜田市を目指します。
その後この時間帯のダイヤは、「急行だいせん」が踏襲することになります。
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福知山線では宝塚・三田・篠山口・谷川・柏原に停車しているようです。

福知山線からは。山陰本線をひたすら西に進み特ロを挟む4両編成がそのまま出雲大社まで、浜田編成は並ロ+3等車4両編成という編成であり、大社線の方が風格が有りました。
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1987年3月31日 
京都の梅小路機関区では、静態保存機であるC51・C53を除く動態保存機が一斉に汽笛を鳴らして蛍の光を演奏するという行事が行われました。
当時はテレビで放映されたのですが。
有難いことに今ではyoutube等を通じてみることが出来ます。



30年と一口に言っても本当に長い年月です。
明日から、こちらのblog以外でも、国鉄に関するお話をさせていただく予定です。

こうご期待?

IMG_9121
 
国鉄時代の制帽
桐と動輪・・・国鉄の象徴でした。
現在この流れを残しているのは、JR東海だけですよね。
国鉄のDNAを最もよく残している会社と個人的に思っております。



現在はサンダーバード、以前は日本海やトワイライトエクスプレスも湖西線を走っていますし、北陸から関西方面への貨物列車は湖西線を経由することが一般的になっていますが、距離は短い反面東海道沿線と比較すると人口の集積が少ないのと風の影響を受けやすいので時々サンダーバードは米原回りに変更される場合があったりしますが、湖西線が開業するまでは当然のことながら北陸本線へ直通する列車は米原経由でした。
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当然のことながら、北陸本線は米原がジャンクションになっているため、名古屋経由も大阪経由もここから北陸方向に進むため優等列車で非常ににぎわっています。img304

さて、湖西線は昭和49(1974)年7月に鉄建公団のC線(主要幹線)として建設されました。
当時の鉄建公団では、建設すべき線路の種類に応じて、地方開発線(A線)、地方幹線(B線)、主要幹線(C線)、大都市交通線(D線)、海峡連絡線(青函トンネル、E線)、整備新幹線(G線)、民鉄線(P線)の7つに区分していました。
特に、地方開発線(A線)、地方幹線(B線)(いわゆる、AB線)に関しては国鉄に無償貸付または譲渡と言う名の押し付けが行われ、それ以外の路線は30年程度の年賦で譲渡される形になっていました。

さて、そうした余談はこの程度にして,
開業当初のダイヤを早速見てみましょう。
昭和49(1974)年7月に開業する湖西線ですが、特急列車の運転は翌年の3月新幹線博多開業まで持ち越されることとなりました。
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img301

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と言う訳で、開業当時の湖西線は非常にシンプルなダイヤでしたが、全線高架線の高速運転も可能なスラブ軌道の鉄道は非常に新鮮でした。
反面、駅の作りなどが画一的でどの駅も同じような構造になってしまう・・・そんな時代でもありました。

なお、デッドセクションは近江塩津でしたので、直流電車は永原まで運転でした、近江塩津を越えて敦賀に行くには気動車による連絡とされており、キハ26等が投入されていました。
ただし、本数は1日3往復のみと言う寂しさでした。
 
IMG_3916

開業に備えて113系700番台が新製配置され、旧形もしくは首都圏のお古しか回ってこない阪和線ユーザーにしてみれば新車投入は羨ましかったですね。
今更蛇足な説明かと思いますが、113系700番台は113系に半自動ドア開閉の機能を付加して、車両でした。(雪切室の記述は誤っていましたので削除のさせていただきました)
IMG_3905

また、車両の詳細は別のブログなどで紹介させていただきます。

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国鉄があった時代 JNR-era

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JR西日本の代名詞ともいえる新快速
播州赤穂から敦賀までの区間を走る快速電車ですが、新快速の歴史を辿ると昭和45年10月まで遡ることが出来ます。

昭和45年、何があったか覚えていますか?

月の石を見るために何時間も並んだ・・・・そんな記憶がある方も多いのではないでしょうか。

そう、日本万国博覧会が開催された年です。

この時御堂筋線が延伸され、北大阪急行が誕生しました。北大阪急行は桃山台からしばらくしてから現在の中国縦貫道を走って万博公園前(当時の名称は中央口)まで延伸されていました。
国鉄は新大阪までの輸送の他に、茨木市からバス輸送により対応するということで、快速電車を茨木市に停車させるとともに、関東から冷房付きの113系を転属させて万博輸送に投入しました。
その時の113系は横須賀線から転属させたので、湘南色を見慣れた関西人からすれば違和感だったようです。

万博終了後113系はそのまま、大阪に配属となりその使い方が検討されることになったようです。
そこで、尾辻はまだ珍しい冷房装置付きであったことから、新たな快速電車として計画されたのが新快速電車でした。
当時は、通勤輸送列車は管理局権限、長距離列車は本社設定ダイヤという棲み分けが出来ており、現在のように新快速が普通電車を追い抜くことは出来ませんでした。
その昔、準急列車という種別があった頃は、準急列車も管理局長の権限で設定できました。

shinnakisoku
画像はイメージです。

運転開始当初の新快速は、「京都~西明石間」に1時間一往復、計6往復が設定されたのみでした。
当時の停車駅を時刻表で見てみますと、大阪・三ノ宮・明石のみという俊足?であり、京都~大阪間29分運転はこの頃からの伝統でした。

ちなみに、当時東京の中央線には「特別快速」という名称の快速の上位に位置する電車が存在していましたが、大阪鉄道管理局はこれを嫌って、「新快速」という名称を与えました。
ただ、本社はあまりよく思っていなかったようで、昭和45年10月の時刻表を見ると、時刻表のニュース欄には「新快速運転開始」と書いているのですが、時刻表を開くと「特別快速」の文字が光っています。
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「新快速」電車が運転と明記されています。

おそらく、誤植ではなく、本社が最後まで「新快速」を認知しなかったからではないかと勝手に推測しています。
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新快速ではなく、特快の文字が見えます。

113系による新快速は昭和45年から昭和47年の新幹線岡山開業まで続き、その後は色々と揉めたそうですが113系は天鉄局に転出、山陽急行で余剰となる153系が玉突的に新快速運用に入ることとなり、15分ヘッドの運転がこの時実現するのですが、その辺のお話はまた次回させていただこうと思います。
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阪和線に転属した113系、冷房試作車であったため。車両によってはダクトと扇風機が併設されているなど仕様が若干異なっていた。

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