加藤好啓 国鉄夜話

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80系電車による準急電車誕生

東海道新幹線が開業するまでは、東海道本線は文字通り太平洋ベル地帯の中心をなすものであり、輸送力の増強は喫緊の課題と言えましたし、率先して整備される路線でありました。
そんな東海道線では、客車列車に代えて中距離でも80系電車が使用されることとなり、週末の熱海準急では、80系電車を使用した列車が設定されていました。
それまでは、電車は近距離の乗り物であり長距離の利用にはなじまないと思われていたのが、実際には中距離の電車にも使用できることから、80系電車は改良が加えられ、それまでは幅を少し狭めて通路幅を引く取っていたわけですが、徐々に改善され通路幅を客車並みにくする代わりに椅子の幅を広げることとなりました。
そして、極めつけは全金属製と呼ばれる300番台車による80系電車の誕生でした。
この電車は当初から準急用として誕生します。
この時、東京~大垣間は準急東海・名古屋~大阪間は準急比叡がそれぞれ活躍することとなるのですが、80系300番台による準急列車の活躍は1年で早々と引退することとなります。
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101系+80系=153系?
私鉄が、昭和29年頃には新性能電車と言われたカルダン駆動を採用し始めていましたが、国鉄では昭和31年当時でも吊りかけ式駆動の電車が製造されており、近代化は遅れ気味となっていました。
満を持して誕生した101系(当初は90系)が誕生した当初はオールMにより、終戦後急速に沿線人口が増えた中央線の輸送力増強として計画されたものの、旧形国電と比べて消費電力が大きいこともあり、オールM構想は早々と諦めてしまいましたが、100kwの高速電動機を使用した特急電車と並行して、中距離電車の開発も進められることとなり、101系の足回りを基本に80系電車の内装を採用した電車が誕生することとなりました。
これが153系であり、設計当初はモハ91系と名乗っていました。
このモハ91系、製作時期が151系と重なっていましたので、製造はかなりタイトだったのでしょう。
特急「こだま」としてデビューする151系(当初は20系)は、昭和33年11月からのデビュー、車両自体は7月頃に落成して、試運転が行われ更に万善を期して10月デビューを1ヶ月遅らせたのですが。
153系の方は数日前に車輌工場で落成し、試運転終了後は直ちに運用に就くというもので、特急「こだま」が華やかな出発式を行ったのに対して、非常に地味なデビューでした。

最初の153系は大垣区に配置
最初に製造された153系は10両編成が1本、日本車両東京支店で製造された、第1陣19両の内の10両で、試運転の後、大垣区配置のまま、田町で待機、11月1日の東海二号で東京駅を下り、東海二号1往復のみが153系に置き換えられました。
当時の東海二号の運転時刻は下記の通りでした。
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運転開始は、昭和33(1958)年11月1日 東京発15:05が発仕業で、これにより本来の配置区に戻ったこととなります。
ただし、当面は予備車がないため、検査時などは80系電車による代走もあったようです。スクリーンショット 2023-12-22 200622
国鉄線、昭和34年1月号の記事から
東京駅を出発する、153系準急「東海」の写真

余談ですが、デビュー当初は準急・急行といった表示は、幕ではなく板となっており、都度差し替えていたそうです。
その後は、表示幕式に変更になっています。
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JR西日本の代名詞ともいえる新快速
播州赤穂から敦賀までの区間を走る快速電車ですが、新快速の歴史を辿ると昭和45年10月まで遡ることが出来ます。

昭和45年、何があったか覚えていますか?

月の石を見るために何時間も並んだ・・・・そんな記憶がある方も多いのではないでしょうか。

そう、日本万国博覧会が開催された年です。

この時御堂筋線が延伸され、北大阪急行が誕生しました。北大阪急行は桃山台からしばらくしてから現在の中国縦貫道を走って万博公園前(当時の名称は中央口)まで延伸されていました。
国鉄は新大阪までの輸送の他に、茨木市からバス輸送により対応するということで、快速電車を茨木市に停車させるとともに、関東から冷房付きの113系を転属させて万博輸送に投入しました。
その時の113系は横須賀線から転属させたので、湘南色を見慣れた関西人からすれば違和感だったようです。

万博終了後113系はそのまま、大阪に配属となりその使い方が検討されることになったようです。
そこで、尾辻はまだ珍しい冷房装置付きであったことから、新たな快速電車として計画されたのが新快速電車でした。
当時は、通勤輸送列車は管理局権限、長距離列車は本社設定ダイヤという棲み分けが出来ており、現在のように新快速が普通電車を追い抜くことは出来ませんでした。
その昔、準急列車という種別があった頃は、準急列車も管理局長の権限で設定できました。

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画像はイメージです。

運転開始当初の新快速は、「京都~西明石間」に1時間一往復、計6往復が設定されたのみでした。
当時の停車駅を時刻表で見てみますと、大阪・三ノ宮・明石のみという俊足?であり、京都~大阪間29分運転はこの頃からの伝統でした。

ちなみに、当時東京の中央線には「特別快速」という名称の快速の上位に位置する電車が存在していましたが、大阪鉄道管理局はこれを嫌って、「新快速」という名称を与えました。
ただ、本社はあまりよく思っていなかったようで、昭和45年10月の時刻表を見ると、時刻表のニュース欄には「新快速運転開始」と書いているのですが、時刻表を開くと「特別快速」の文字が光っています。
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「新快速」電車が運転と明記されています。

おそらく、誤植ではなく、本社が最後まで「新快速」を認知しなかったからではないかと勝手に推測しています。
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新快速ではなく、特快の文字が見えます。

113系による新快速は昭和45年から昭和47年の新幹線岡山開業まで続き、その後は色々と揉めたそうですが113系は天鉄局に転出、山陽急行で余剰となる153系が玉突的に新快速運用に入ることとなり、15分ヘッドの運転がこの時実現するのですが、その辺のお話はまた次回させていただこうと思います。
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阪和線に転属した113系、冷房試作車であったため。車両によってはダクトと扇風機が併設されているなど仕様が若干異なっていた。

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