blackcatこと鉄道ジャーナリスト 加藤好啓 国鉄夜話

国鉄時代の写真並びに時刻表などを中心にアップさせていただきます。 国鉄に関する資料等も順次アップさせていただきます。 取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に blackcat.kat@gmail.comにメール またはメッセージ、コメントにて お待ちしております。

タグ:時刻表

私も生まれる前ですが、今から65年ほど前、昭和28年の時刻表を紐解いてみたいと思います。
手元の65年前の時刻表(復刻版ではない)があるのですが、さすがに紙の質が良くないので、あまり無茶をすると壊れてしまいそうです。
img602
イラストは、EF56をイメージしているように思われます。
さて、今回は東北本線にスポットを当ててみたいと思います。
img600
最初は、上野から福島間の時刻表ですが。
見開き1枚で収まってしまうほどしか列車が走っていなかったと言うことになるのですが。
急行列車にも愛称が付けられたのが、昭和25年11月からであり、準急行などにはまだ愛称すらついていない列車もあったようです。
さて、この時刻表を見てみますと、上野発青森行き「急行青葉」2・3等急行で食堂車付きとなっています。
戦前は、急行は和食堂・特急は洋食堂と言った具合に分かれていましたが、戦後はそうした区分も無くなったようです。
また、当時は長距離普通列車が設定されており、東北本線では3本111・113・115列車 全ての列車に2等車(グリーン車)が連結されていたことが判ります。
当時は自動車等が発達しておらず、自ずと鉄道の利用がメインとなるため、普通列車でも2等車の連結はどうしても必要でした。

同じく、福島から青森を覗いてみたいと思います。
常磐線からの列車が仙台から合流するため、俄然夜行列車が賑やかになります。
当時は東北本線も常磐線も非電化であったため、速度や輸送力の点で、平坦線が多い常磐線の方が長距離列車には有利であったため、常磐線には多数の優等列車が運転されていました。
この傾向は昭和40年代のブルトレ全盛期にも見られ、東北本線が「はくつる」のみに対して、対北海道輸送を引き受ける常磐線列車は「ゆうづる」は5往復運転されたと言う記録もあります。
更にこれを見ていますと、急行北斗の隣、1201列車「特殊列車」の名称がを見ることができますが、これは進駐軍時代の、「Yankee Limited」(北部特急)として運転されていた列車の名残で講和条約以後は日本人も普通の乗れたのですが、特殊列車という名称自体が乗りにくくさせていたと言えますね。
特殊列車の愛称は昭和29年10月のダイヤ改正で完全に廃止され、特殊列車は新たに「十和田」という愛称を与えられました。
img601



大和路快速の新大阪発があった?
みなさま今晩は、久々に更新させていただこうと思います。
現在の大和路快速は、天王寺発大阪経由奈良行きであり、このスタイルは実は、昭和48年(1973)の電化開業当時から変わらないスタイルなのですが、今から30年程前、奈良から新大阪まで直通する快速電車が運転された時期がありました。img533
これを見てもらうとよくわかるのですが、停車駅は新大阪・西九条・新今宮・天王寺・王寺・法隆寺・奈良となっています。
停車駅の少なさが目につきます、新大阪を出ると現在の「はるか」や「くろしお」が通過するルートを経由して奈良まで入っていました。

臨時列車として運転
何故こんな列車が運転されたのでしょうかそれは「なら・シルクロード博覧会」が開催されていたからであり、それに呼応する形で新幹線との利便性を高めることを目的に運転されました。
使用車両は、103系であり、新幹線から乗換がロングシートというのも個人的には嫌なのですが・・・まぁ、これは仕方のないことかもしれませんでした。
IMG_0990
同系車が臨時快速に充当されました。

湊町~天王寺間は運休に
この臨時列車のダイヤは、特別に作ったものではなく既存の列車ダイヤの一部を修正したものでした。
元々の列車ダイヤでは、新今宮から湊町に入るのですが、新今宮から湊町(現在のJRなんば)の区間を運休し、新今宮から新大阪間にダイヤを押しこむ形で計画されました。
元々湊町に乗り入れていた快速電車は103系でしたので、そのまま快速電車が新大阪まで乗り入れることになったのです。
当時は4両編成が乗り入れていたように記憶していますが、当時は仕事が忙しくて殆ど写真も撮っていません。
今となっては大いに悔やまれるところではあります。

踏切の遮断時間が問題になって一時的な扱いに・・・。
ただ、ここで大きな問題が起こりましたそれは福島駅下の踏切の遮断時間がさらに増えて交通渋滞が増えるのではないかという問題でした。
当時は、阪神がまだ地下線になっておらず、梅田を出るとすぐに地上に出てきてJR福島駅のすぐそばを阪神電車が行き来していたわけです。
あれほどの交通量の多いところで、平成5年まで阪神が地上を走っていたことの方が驚かされるのですが。(^^♪
当然、20分に1本も昼間だけとはいえ電車が増えるとそれでなくても渋滞で待たされるのにさらに遮断される時間が増えると大問題になりました。
イベント期間だけ
ということで、整理がついたかで約半年間の辛抱となったのですが・・・その後阪和線の改良工事が行われ阪和線が直接新大阪まで乗り入れるようになったのは、皆様ご存じのとおりです。



皆さまこんばんは、本日は昭和47年3月15日のダイヤ改正
新幹線岡山開業を見ていただこうと思います。
昭和39年の東海道新幹線開業から8年、岡山まで新幹線が開業しました。
山陽新幹線の特徴は、新大阪を境としてひかり号の種類を分けて、各駅停車タイプと速達タイプに分かれていました。
これは、東海道区間と比して、輸送需要は小さいからと考えられたからですが、1桁番号のひかり号が速達タイプで、新大阪~岡山間ノンストップ
2桁番号のひかりが号が、西明石・相生を通過するタイプ、3桁番号のひかり号が、岡山まで各駅停車タイプであり、こだま号は区間運転列車として早朝の新大阪発の送り込み編成だけしか設定されていませんでした。

img495

img497

当時の新幹線岡山開業を告げるCM放送
 

これにより、大阪発着の昼行特急列車は、「しおじ」、「なは・日向」、「かもめ」、「みどり」、急行べっぷ1号・つくし1号」の他、東京発の長距離急行「高千穂・桜島」も残りました。
高千穂・桜島は、東海道線最後の昼行急行客車列車としての役割を担っており、東京10:00発大阪18:04着、亜終点西鹿児島は10:51(日豊本線経由は14:51)と各々24時間以上走る列車も残っていました。
さらに、夜行列車に関してもその殆どが大阪始発で残され、岡山始発となったのは、「つばめ」「はと」、「月光」の3種類となりました。
それでは、当時の時刻表から見ていただこうと思います。
昭和47年3月15日改正の時刻表を時系列的に並べてあります。
ただし、1番は夜行列車のみであったため省略させていただきました。

つばめ・はとは仲良く岡山発となり、山陽が補完列車としての役割を果たしています。
日向・なは、みどり等は、何れも大阪始発の特急列車として残っています。
19720302
19720303

下関行き特急「しおじ」は全て大阪始発となっており、181系の他運用の都合で485系も使われていました。
19720305
19720306

大阪始発西鹿児島行きの「急行屋久島」も運転されていました。
広島から夜行区間に入り西鹿児島には朝着く夜行列車としての使命を持っていました。
19720307
19720308

夕刻の夜行列車タイムは、ブルートレインの乱舞であり、特急あかつき・彗星・明星・きりしま等に混じって急行列車「日南」等も運転されているのが見えます。
そう考えると当時の大阪駅は夕刻からは10分おきくらいに夜行列車(寝台列車)が旅立っていきました。
19720309
19720310

1時過ぎに大阪駅に停車する「特急金星」までの時間は大阪駅はある意味鉄道ファンにしてみればゴールデンタイムと言えましょう。
19720311

JNR_DC82

参考 昭和46年10月時刻改正 の時刻表を添付させていただきます。

「はと51号」が大阪始発になっています。
19711001
19711002

取材・執筆のお問合せは、お気軽に

blackcat.kat@gmail.comまでお願いいたします。

スパム対策で、@は全角となっています。

3
JR発足時の運転ダイヤ・・・実は昭和61年10月に作られました。
img377

img378
昭和61年時刻表

昭和62年4月1日JR各社は発足しますが、運転ダイヤは昭和61年10月のまま、ということで国鉄時代のダイヤを踏襲していたことになり、本格的なJRのダイヤ改正は昭和63年3月のダイヤ改正まで待つ必要がありました。
img379

img380

と言っても、実際のダイヤ改正の素案などは昭和61年頃からスタートしているので、昭和63年の改正も、基本構想は国鉄時代に出来上がっていたそうです。
img382

余談ですが、JR発足当初は、JR各社で設計図の使いまわしと言うか借用は有ったようで、
リゾートサルーン・フェスタの先頭車のガラスは、スーパーエクスプレスレインボーの下端を短くしただけで共通の設計図と言うか部品を使ったということも聞いたことがあります。
Koro59_festa

リゾートサルーン・フェスタ

Superexpress_rainbow
スーパーエクスプレスレインボー

当時は分割したとはいえ、元々同じ国鉄と言う組織ですから、管理局が大型化したみたいな感じだったのではないかと思いますが、30年もたつとその辺の意識は薄れて来るようですね。

特に、東京駅の新幹線乗り場を見るとつくづくそう思います。
歴史にIFは無いけれど、分割されていなかったら東北新幹線が品川着だったリ、その逆に東海道新幹線が上野まで乗入なんてことも普通に行われていたんだろうなぁと・・・。-

皆様、長らく開けてしまいまして申し訳ございません。
今回は、昭和38年の信越線を見てみようと思います。

今回も当時の時刻表からご覧いただきましょうか。
準急・急行が走る中に1本だけ特急列車の名前が見えます。
その名は。「特急白鳥」
img321

上野駅を09:05に出発、終着駅は大阪20:17ということで約11時間かけて走るという代物、今では新幹線で2時間半、仮に北陸新幹線が大阪まで開業したとしたら4時間程度になるかもしれませんが・・この列車は実はさらにもう一つの特徴は2階建て列車だったということでしょうか。
2階建てと言ってもダブルデッカーを連結していたという意味ではなくて、2方向の違う方向に向かう列車が連結されていたということです。
img322

さらに、この白鳥は、横川~軽井沢間はアプト式区間を通過するという経路を辿っておりました。
さらに11時間も運転しますので食堂車がいずれの編成にも連結されており、14両編成で食堂車が2両もあるというなんとも豪華な編成でした。
img323

今ではちょっと考えられませんよね。
余談ですが、ラックレールを使って運転していた時は80系電車などはコイルバネのままでしたが、特急気動車は勿論、急行気動車も空気ばね式の台車を使っていました。
これは、人員の重さで車体が下がりすぎてラックレールにぶつからないように、一定の高さを保つために必要であったとわれており、その後の粘着運転では重心の低下と座屈による脱線防止の観点から空気ばねをパンクさせるようにするなどその手続きは変わりましたが、当時は「急行志賀」等はキハ57形が投入されておりました。 

↑このページのトップヘ