加藤好啓 国鉄夜話

国鉄時代の写真並びに時刻表などを中心にアップさせていただきます。 国鉄に関する資料等も順次アップさせていただきます。 取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に blackcat.kat@gmail.comにメール またはメッセージ、コメントにて お待ちしております。

タグ:時刻表

ヨンサントウの時刻表から
ひょんな事から、昭和43年3月のjtb版時刻表【当時版】が手に入ったので、この時刻表を参照しながらお話をさせていただこうと思います。

ということで、今回は中央線の時刻表を見ていただこうと思います。
昭和43年10月の改正、中央道など高速道路は開通して居らず、山梨方面への利用はもっぱら鉄道であり、夜行列車も多数運転されていたようです。
臨時の夜行列車が多いのが特徴と言えましょうか。
中央アルプス登山の利用者向けの列車が多いことが目につきます。

臨時列車ではありますが、岡谷行き、甲府行きと、00:20~00:50迄の30分間に、3本の列車が運転されています。
連続して3つの列車が運転されています。
特に八ヶ岳高原号は、小淵沢から野辺山に直通する列車で7:31に野辺山到着となっていますが、定期列車併結では無く蒸気機関車牽引だったのでしょうか。
23.4kmの距離を一時間半程かかっています。
同じ時間帯で運転sれる気動車列車は、出発が6:24と遅いにも関わらず、7:13には野辺山に到着しており、30分も運転時間に差が出ています。

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新宿と言えば「アルプス広場」が現在もあるようですが、登山客のメッカというイメージがありました。現在は、バスターミナルが駅前に出来て、夜行列車からすっかり、夜行バスにそのお株を奪われてしまった感がありますが、昭和43年当時の時刻表を見ますと、アルプスという愛称の急行が多数走っています。
165系が投入されていましたが、中央線の狭小トンネルを通過するため、パンタグレ不文を低屋根にした800番台が増備され【その後、PS23形パンタグラフが開発され低屋根化は必要なくなりました.】ていました。
非冷房時代は、扇風機に代えて10系客車などで見ることが出来たラインデリアが装備されていたように記憶しています。
また、個々で注目したいのは、8:10発の急行「甲州ぶどう号」でしょうか。
この列車には、「ワ」の文字が見えますが、これは、ワッペン列車と呼ばれるもので、当該列車に乗車する前にワッペンを購入すると座席が確保されるというものでした。【指定席では無く、個々の席は自由に選べる、乗車整理券と呼ばれるものでした】

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そして、こうして見ると、当時は急行が幅を利かせているのがよく判るかと思います。
当時は、特急列車は特別な列車であり、急行列車が現在の特急列車の位置づけでした。
いわば、クルーズトレインより料金を安くして毎日運転するのが特急であり、急行は庶民が利用する特急、そんな時代だったのです。

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夜間時間帯になりますと、22:30~23:50迄の約一時間半の間にこれまた臨時列車が多数ありますが、集中して運転されているのが判ります。
当時のアルプス10号・11号は、大糸線の南小谷迄直通運転されていますが、今ではちょっと考えにくいのではないでしょうか。
それ以外では、23:55発に長野行きがありますが、長野着は10:16となっておりますが、甲府あたりノン分最終版を配送する輸送もになっていたかもしれないですね。
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今回は、昭和33年10月改正に時刻表からになります。
全国版時刻表では無く、支社監修の時刻表と言うことで、九州地区の時刻は詳しいのですが、東北・北海道などが省略されています。苦笑
当時の西部支社というのが、九州全域と中国地方【広島・山口】を管轄していたので、時刻表を見ますと、概ね滋賀以西しか地図すら載っていません。笑img322
その中で、今回は、大阪から西に向かう時刻表に注目してみたいと思います。
それがこちら、
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右側に行くと丁度寝台列車が下ってくる時刻になるのですが、「特急平和」という名前が目に入ってきます。
まさか、ここでリアルに時刻表で見ることが出来るとは・・・。
この長崎行きの「平和」という列車、昭和33年10月のダイヤ改正で誕生するのですが、昭和34年の改正では、「さくら」に再び改称されてしまうため、非常に貴重なんです。

個々で、簡単に「へいわ」号のお話をおさらいしてみようと思います。

へいわ号は、感じの場合を含めて合計三回登場していますが、いずれも1年内外で廃止になっています。

最初のへいわ号は、
昭和24年9月のダイヤ改正で誕生しました。
しかし、この列車は当初から仮名ということで、公募により変更されることが最初からアナウンスされていました。
リリーフ特急と言えましょう。
その後、へいわ号は、「特急つばめ」に変更されます。
戦前は、「燕」と漢字で表現でしたが、戦後は「つばめ」とひらがなで表現されることとなりました。
個々で、一度へいわ号の、活躍は幕を閉じます。

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その後、昭和は、この時刻表にアップしました、昭和33年10月の改正で、東京~長崎を運転する列車として誕生します。
長崎の平和の鐘をイメージして、釣り鐘に平和の文字を組み合わせた比較的シンプルなものでした。
この列車も、実は短命で、昭和34年7月の改正で、「特急さくら」に愛称が変更されてしまいます。
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大阪からの、特急平和号の時刻です。

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九州島内、鹿児島本線のダイヤ

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嵯峨に停車すると、諫早までノンストップです。

列車本体を、「さくら号」に譲ることにより、再び、平和という名称の特急列車は引退してしまいます。

平和号が再び登場するのは、昭和36年10月の改正でした。
今度は東京からの列車ではなく。大阪始発広島行きの列車として、キハ82により誕生します。
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昭和

広島→大阪のビジネス利用を目的として居たようで、下り列車は18:00と比較的遅く、広島着も22:40と当時の列車としては、かなり遅い列車でした。調べて見ますと、広島は逆に7:30となっており、広島~大阪へのビジネス列車としての性格を持っていたことがうかがわれます。
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本日は、昭和42年2月の時刻表から適当に開いたページを開いて、思うところを書かせていただこうと思います。
今回は土讃本線をアップしてみました。
JR発足後、土讃本線→土讃線と名称を変更していますので、若い人には土讃線の方がわかりやすいかと思いますが、多度津駅から窪川までを結ぶ路線で、多くの列車は高松から直通しています。
さて、早速当時の時刻表を見てみますとimg024

最初に目に付くのが、1等車を連結した夜行列車が、高松を1:08に出発する夜行列車として運転されています。
終着駅は土佐佐賀と書かれており、7:56到着となっています。
土佐佐賀駅?と思って調べてみますと、現在は土佐くろしお鉄道線となっている中村線の途中駅でした。
昭和38年12月18日に部分開業しており、昭和42年当時は、この駅が中村線の終着駅でした。

なお、この1:08高松を出発する241列車は、大阪を18:30に出発する鷲羽7号を受けており、宇野22:00着、宇野発 22:10 高松23:25着の列車を受けて、出発することとなっており、宇野での出発をもう少し遅らせても何ら問題は無いと思うのですが、高松での待ち時間の方が乗船時間より長いという矛盾があるのですが、何か理由があったのでしょうか?
今後もう少し調べてみようと思います。

それ以外にも高松3:30と言う列車等もありましたが、こちらは大阪を20:57に出発する普通電車(快速電車)を受けていました。
列車は1:01に宇野到着、そこから宇野線ダッシュで1:09宇野発、2:19高松港着、そしてここでも約1:10分ほど高松駅で連絡待ちしてから出発しています。
なお、高松を5:17に出発する足摺1号は、大阪を23:00に出る鷲羽8号を受けています。

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宇野線の時刻表は下記のようになっています。
高松3:30の列車は、高松2:19着の連絡船を受けて出発する列車のようで、大阪を20:57始発の快速電車となっています、大阪を出ますと、三宮・神戸・明石・大久保・土山・加古川からは各駅に停車、宇野線内は、大元・妹尾・早島・茶屋町と停車した後宇野まで直通、8分の乗り換え時間と言う非常にリスキーな乗り換え時間です。
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1時01分、宇野着、1:09宇野発というかなり厳しい乗り換え時間
当時の宇野駅はもっと海よりでしたがそれでも、この乗り換え時間はかなり厳しかったのではないでしょうか。
その反面、四国に着いてからは待ち時間が1時間近くあるという矛盾です。


宇野では、桟橋までのマラソンが日常茶飯事だったと聞いたことがありますが、8分はちょっと厳しかったのでは無いでしょうか。特に大きな荷物を持っての移動はかなり酷だったような気がします。

しかし、実際に時刻表を見ていただくと判ると思いますが、普通列車の接続は7分とか8分という非常に短い連絡時間となっています。
なにゆえそのような時間になったのかは今後調べてみようと思います。

だらだらと書いても仕方が無いので、この辺で終わりにしたいと思いますが。
当時の時刻表を見ながら当時の世相などを考えていくと面白言うかもしれませんね。

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私も生まれる前ですが、今から65年ほど前、昭和28年の時刻表を紐解いてみたいと思います。
手元の65年前の時刻表(復刻版ではない)があるのですが、さすがに紙の質が良くないので、あまり無茶をすると壊れてしまいそうです。
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イラストは、EF56をイメージしているように思われます。
さて、今回は東北本線にスポットを当ててみたいと思います。
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最初は、上野から福島間の時刻表ですが。
見開き1枚で収まってしまうほどしか列車が走っていなかったと言うことになるのですが。
急行列車にも愛称が付けられたのが、昭和25年11月からであり、準急行などにはまだ愛称すらついていない列車もあったようです。
さて、この時刻表を見てみますと、上野発青森行き「急行青葉」2・3等急行で食堂車付きとなっています。
戦前は、急行は和食堂・特急は洋食堂と言った具合に分かれていましたが、戦後はそうした区分も無くなったようです。
また、当時は長距離普通列車が設定されており、東北本線では3本111・113・115列車 全ての列車に2等車(グリーン車)が連結されていたことが判ります。
当時は自動車等が発達しておらず、自ずと鉄道の利用がメインとなるため、普通列車でも2等車の連結はどうしても必要でした。

同じく、福島から青森を覗いてみたいと思います。
常磐線からの列車が仙台から合流するため、俄然夜行列車が賑やかになります。
当時は東北本線も常磐線も非電化であったため、速度や輸送力の点で、平坦線が多い常磐線の方が長距離列車には有利であったため、常磐線には多数の優等列車が運転されていました。
この傾向は昭和40年代のブルトレ全盛期にも見られ、東北本線が「はくつる」のみに対して、対北海道輸送を引き受ける常磐線列車は「ゆうづる」は5往復運転されたと言う記録もあります。
更にこれを見ていますと、急行北斗の隣、1201列車「特殊列車」の名称がを見ることができますが、これは進駐軍時代の、「Yankee Limited」(北部特急)として運転されていた列車の名残で講和条約以後は日本人も普通の乗れたのですが、特殊列車という名称自体が乗りにくくさせていたと言えますね。
特殊列車の愛称は昭和29年10月のダイヤ改正で完全に廃止され、特殊列車は新たに「十和田」という愛称を与えられました。
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大和路快速の新大阪発があった?
みなさま今晩は、久々に更新させていただこうと思います。
現在の大和路快速は、天王寺発大阪経由奈良行きであり、このスタイルは実は、昭和48年(1973)の電化開業当時から変わらないスタイルなのですが、今から30年程前、奈良から新大阪まで直通する快速電車が運転された時期がありました。img533
これを見てもらうとよくわかるのですが、停車駅は新大阪・西九条・新今宮・天王寺・王寺・法隆寺・奈良となっています。
停車駅の少なさが目につきます、新大阪を出ると現在の「はるか」や「くろしお」が通過するルートを経由して奈良まで入っていました。

臨時列車として運転
何故こんな列車が運転されたのでしょうかそれは「なら・シルクロード博覧会」が開催されていたからであり、それに呼応する形で新幹線との利便性を高めることを目的に運転されました。
使用車両は、103系であり、新幹線から乗換がロングシートというのも個人的には嫌なのですが・・・まぁ、これは仕方のないことかもしれませんでした。
IMG_0990
同系車が臨時快速に充当されました。

湊町~天王寺間は運休に
この臨時列車のダイヤは、特別に作ったものではなく既存の列車ダイヤの一部を修正したものでした。
元々の列車ダイヤでは、新今宮から湊町に入るのですが、新今宮から湊町(現在のJRなんば)の区間を運休し、新今宮から新大阪間にダイヤを押しこむ形で計画されました。
元々湊町に乗り入れていた快速電車は103系でしたので、そのまま快速電車が新大阪まで乗り入れることになったのです。
当時は4両編成が乗り入れていたように記憶していますが、当時は仕事が忙しくて殆ど写真も撮っていません。
今となっては大いに悔やまれるところではあります。

踏切の遮断時間が問題になって一時的な扱いに・・・。
ただ、ここで大きな問題が起こりましたそれは福島駅下の踏切の遮断時間がさらに増えて交通渋滞が増えるのではないかという問題でした。
当時は、阪神がまだ地下線になっておらず、梅田を出るとすぐに地上に出てきてJR福島駅のすぐそばを阪神電車が行き来していたわけです。
あれほどの交通量の多いところで、平成5年まで阪神が地上を走っていたことの方が驚かされるのですが。(^^♪
当然、20分に1本も昼間だけとはいえ電車が増えるとそれでなくても渋滞で待たされるのにさらに遮断される時間が増えると大問題になりました。
イベント期間だけということで、整理がついたかで約半年間の辛抱となったのですが・・・その後阪和線の改良工事が行われ阪和線が直接新大阪まで乗り入れるようになったのは、皆様ご存じのとおりです。

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