blackcatこと鉄道ジャーナリスト 加藤好啓 国鉄夜話

国鉄時代の写真並びに時刻表などを中心にアップさせていただきます。 国鉄に関する資料等も順次アップさせていただきます。 取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に blackcat.kat@gmail.comにメール またはメッセージ、コメントにて お待ちしております。

タグ:昭和63年

大和路快速の新大阪発があった?
みなさま今晩は、久々に更新させていただこうと思います。
現在の大和路快速は、天王寺発大阪経由奈良行きであり、このスタイルは実は、昭和48年(1973)の電化開業当時から変わらないスタイルなのですが、今から30年程前、奈良から新大阪まで直通する快速電車が運転された時期がありました。img533
これを見てもらうとよくわかるのですが、停車駅は新大阪・西九条・新今宮・天王寺・王寺・法隆寺・奈良となっています。
停車駅の少なさが目につきます、新大阪を出ると現在の「はるか」や「くろしお」が通過するルートを経由して奈良まで入っていました。

臨時列車として運転
何故こんな列車が運転されたのでしょうかそれは「なら・シルクロード博覧会」が開催されていたからであり、それに呼応する形で新幹線との利便性を高めることを目的に運転されました。
使用車両は、103系であり、新幹線から乗換がロングシートというのも個人的には嫌なのですが・・・まぁ、これは仕方のないことかもしれませんでした。
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同系車が臨時快速に充当されました。

湊町~天王寺間は運休に
この臨時列車のダイヤは、特別に作ったものではなく既存の列車ダイヤの一部を修正したものでした。
元々の列車ダイヤでは、新今宮から湊町に入るのですが、新今宮から湊町(現在のJRなんば)の区間を運休し、新今宮から新大阪間にダイヤを押しこむ形で計画されました。
元々湊町に乗り入れていた快速電車は103系でしたので、そのまま快速電車が新大阪まで乗り入れることになったのです。
当時は4両編成が乗り入れていたように記憶していますが、当時は仕事が忙しくて殆ど写真も撮っていません。
今となっては大いに悔やまれるところではあります。

踏切の遮断時間が問題になって一時的な扱いに・・・。
ただ、ここで大きな問題が起こりましたそれは福島駅下の踏切の遮断時間がさらに増えて交通渋滞が増えるのではないかという問題でした。
当時は、阪神がまだ地下線になっておらず、梅田を出るとすぐに地上に出てきてJR福島駅のすぐそばを阪神電車が行き来していたわけです。
あれほどの交通量の多いところで、平成5年まで阪神が地上を走っていたことの方が驚かされるのですが。(^^♪
当然、20分に1本も昼間だけとはいえ電車が増えるとそれでなくても渋滞で待たされるのにさらに遮断される時間が増えると大問題になりました。
イベント期間だけ
ということで、整理がついたかで約半年間の辛抱となったのですが・・・その後阪和線の改良工事が行われ阪和線が直接新大阪まで乗り入れるようになったのは、皆様ご存じのとおりです。

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JR発足時の運転ダイヤ・・・実は昭和61年10月に作られました。
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昭和61年時刻表

昭和62年4月1日JR各社は発足しますが、運転ダイヤは昭和61年10月のまま、ということで国鉄時代のダイヤを踏襲していたことになり、本格的なJRのダイヤ改正は昭和63年3月のダイヤ改正まで待つ必要がありました。
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と言っても、実際のダイヤ改正の素案などは昭和61年頃からスタートしているので、昭和63年の改正も、基本構想は国鉄時代に出来上がっていたそうです。
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余談ですが、JR発足当初は、JR各社で設計図の使いまわしと言うか借用は有ったようで、
リゾートサルーン・フェスタの先頭車のガラスは、スーパーエクスプレスレインボーの下端を短くしただけで共通の設計図と言うか部品を使ったということも聞いたことがあります。
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リゾートサルーン・フェスタ

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スーパーエクスプレスレインボー

当時は分割したとはいえ、元々同じ国鉄と言う組織ですから、管理局が大型化したみたいな感じだったのではないかと思いますが、30年もたつとその辺の意識は薄れて来るようですね。

特に、東京駅の新幹線乗り場を見るとつくづくそう思います。
歴史にIFは無いけれど、分割されていなかったら東北新幹線が品川着だったリ、その逆に東海道新幹線が上野まで乗入なんてことも普通に行われていたんだろうなぁと・・・。-

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