加藤好啓 国鉄夜話

国鉄時代の写真並びに時刻表などを中心にアップさせていただきます。 国鉄に関する資料等も順次アップさせていただきます。 取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に blackcat.kat@gmail.comにメール またはメッセージ、コメントにて お待ちしております。

タグ:新快速

以前に新快速のお話をさせていただきましたが、今回は阪和線を走った新快速のお話です。
阪和線を走った新快速が誕生したのは昭和47年3月のダイヤ改正で新快速が誕生(新幹線岡山開業で153系が余剰となりその玉突きで153系で新快速を増発、15分ダイヤが組まれるのですが、本社から大鉄に配属されている冷房装置付き113系電車を天鉄にいどうさせろtるを天鉄局に転属させろと言うことでかなり大鉄と本社の間で揉めたそうですが、結局本社に押し切られる形で113系を手放したのですが、その車両を使って運転開始になったのが阪和線の新快速になるわけです。

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当時は103系快速が53分から56分、113系も52分くらいかかっていましたので、45分は夢のような速さでした。
口の悪いファンからは戦前のレベルにやっと戻ったと言う人もいたようですが、実際には戦前の(阪和鉄道時代)特急はのストップでしたからそれよりも間違いなく早くなったと言えましょうか。
当時の停車駅は鳳のみでしたが。1時間に1本、更に停車駅が鳳のみでは利用者はあまり見込めず、何時のってもがらgらと言う印象はありました。
ても空いているなぁと言う印象がありました。
ただ、梅雨時などは窓も開けられなかったので、冷房装置の存在は本当にありがたかったです。
結局、南海電車対策を兼ねての登場かと思われますが、結局利用者は伸びず、昭和52年には熊取・和泉砂川が停車駅に追加され、45分運転は不可能となり、49分まで後退してしまい、従前の快速と5分程度しか変わらなくなりました。
更に昭和48年の関西線(湊町~奈良)の電化開業以降は春日塗の113系も新快速運用に入るときがあり、一度だけ梅雨時の雨の日写真撮影に行ったら、113系春日塗が新快速運用に入っていて、ちょっと乗っている人は蒸し暑かろうと同情したものでした。
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珍しいところでは、他にもこんな事例がありました。
それは、103系による新快速代走でした、昭和49年(1974年6月号の読者投稿で、3月22日阪和線で架線事故があり、車両のやりくりが付かなかったとのことで、103系による代走が走ったそうです。
この話は、意外と知らない人が多いのではないでしょうか?
ここにご披露させていただきます。
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画像はイメージです。

下記の記事は、実際に鉄道ピクトリアルに掲載された記事
1974年6月号から引用
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昨日は153系の話だったのですけれど、今夜は117系の話など。
JR西日本の新快速は、昭和47年新幹線岡山開業で余剰となった153系を転用する形で運転開始をした新快速により現在の形が出来上がることとなった。
急行用だったので153系は全車冷房付き、6連での運用でしたが113系と異なりデッキ付きのため朝夕のラッシュ時には使いづらくデイタイムのみの運転でした。
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なお、この時に新快速に採用された塗り分けが灰色と水色(青22号)で塗装された新快速塗装でした。
同じ塗分けで113系もデビューしました。
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国鉄の新快速に最初に危機感を感じたのは京阪だったようで、昭和48年には3000系をデビューさせて1900系を置き換えています。
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画像 Wikipedia参照

京阪は線形の悪さも手伝って所要時間は45分程度かかっていたことも背景にあったかと思います。
阪急も、昭和50年に6300系を導入したことで、今度は国鉄が危機感を持ち、117系を導入することになるのですが、本社からは中々承認が降りなかったと言ったことを聞いたことがあります。

国鉄にしてみれば、地方管理局独自の車両を別設計することには難色を示していましたが、大阪鉄道管理局の局員の機転で、京都に宿をとり、阪急の6300系に国鉄幹部を乗せて、「153系では太刀打ちできないよ」と暗に理解できるように仕向けた・・・なんて話を聞いたのですが、私が直接聞いたわけではないので真意の程は判りませんが、これが本当なら、中々この当時の大鉄局の職員は策士だったんだろうなぁと思います。

他にも、当時は国鉄の運賃の値上げは春の風物詩のようになっており、国鉄の料金が平行する私鉄の運賃の倍近くになって、遅くて高い国鉄より、安くて速い私鉄に利用者が流れている時期だったことも影響していたと思います。
117_kuroki

117系のデビューは昭和54年ですが、54年?の正月の記事だったと思いますが関西にデビューする新型電車ということで、117系の完成予想イラストが紹介されていました。
この車両を最初に見た時は、まさかこんなかっこいい電車が出来るはずはないと子供心に思ったものです。

 それだけに、こんな立派な車両がという思いが強かったのです。
 イラストでは片側1灯づつだったライトが2灯になった点を除けばほぼイメージどおりの出来上がりでびっくり、さらに驚いたことは、同じ時期にデビューした185系よりも落着いた内装を持っていたことでした。
 デッキ付か否かの差はあっても片や特急用。片や普通列車用、普通列車用の117系がつや消し木目の落着いた内装に比べ185系はコルク模様のつやあり化粧板・・・・
 これを見た時は、大鉄局の心意気を感じたものです。

昭和55年1月22日から営業運転開始され、秋までには153系(一部165系)を淘汰し、その一部は中央線などに転用されたようです。

その後の中京圏にも117系が投入されたりしましたがその辺は割愛させていただきます。
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昭和47年10月の時刻表から抜粋 京都~姫路・草津~西明石の交互運用になっていました。

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JR西日本の代名詞ともいえる新快速
播州赤穂から敦賀までの区間を走る快速電車ですが、新快速の歴史を辿ると昭和45年10月まで遡ることが出来ます。

昭和45年、何があったか覚えていますか?

月の石を見るために何時間も並んだ・・・・そんな記憶がある方も多いのではないでしょうか。

そう、日本万国博覧会が開催された年です。

この時御堂筋線が延伸され、北大阪急行が誕生しました。北大阪急行は桃山台からしばらくしてから現在の中国縦貫道を走って万博公園前(当時の名称は中央口)まで延伸されていました。
国鉄は新大阪までの輸送の他に、茨木市からバス輸送により対応するということで、快速電車を茨木市に停車させるとともに、関東から冷房付きの113系を転属させて万博輸送に投入しました。
その時の113系は横須賀線から転属させたので、湘南色を見慣れた関西人からすれば違和感だったようです。

万博終了後113系はそのまま、大阪に配属となりその使い方が検討されることになったようです。
そこで、尾辻はまだ珍しい冷房装置付きであったことから、新たな快速電車として計画されたのが新快速電車でした。
当時は、通勤輸送列車は管理局権限、長距離列車は本社設定ダイヤという棲み分けが出来ており、現在のように新快速が普通電車を追い抜くことは出来ませんでした。
その昔、準急列車という種別があった頃は、準急列車も管理局長の権限で設定できました。

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画像はイメージです。

運転開始当初の新快速は、「京都~西明石間」に1時間一往復、計6往復が設定されたのみでした。
当時の停車駅を時刻表で見てみますと、大阪・三ノ宮・明石のみという俊足?であり、京都~大阪間29分運転はこの頃からの伝統でした。

ちなみに、当時東京の中央線には「特別快速」という名称の快速の上位に位置する電車が存在していましたが、大阪鉄道管理局はこれを嫌って、「新快速」という名称を与えました。
ただ、本社はあまりよく思っていなかったようで、昭和45年10月の時刻表を見ると、時刻表のニュース欄には「新快速運転開始」と書いているのですが、時刻表を開くと「特別快速」の文字が光っています。
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「新快速」電車が運転と明記されています。

おそらく、誤植ではなく、本社が最後まで「新快速」を認知しなかったからではないかと勝手に推測しています。
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新快速ではなく、特快の文字が見えます。

113系による新快速は昭和45年から昭和47年の新幹線岡山開業まで続き、その後は色々と揉めたそうですが113系は天鉄局に転出、山陽急行で余剰となる153系が玉突的に新快速運用に入ることとなり、15分ヘッドの運転がこの時実現するのですが、その辺のお話はまた次回させていただこうと思います。
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阪和線に転属した113系、冷房試作車であったため。車両によってはダクトと扇風機が併設されているなど仕様が若干異なっていた。

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