加藤好啓 国鉄夜話

国鉄時代の写真並びに時刻表などを中心にアップさせていただきます。 国鉄に関する資料等も順次アップさせていただきます。 取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に blackcat.kat@gmail.comにメール またはメッセージ、コメントにて お待ちしております。

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昭和36年10月の改正で誕生した白鳥号
白鳥号は、昭和36年10月、サンロクトウの改正で誕生した特急で、同時期は、まつかぜ・かもめ・へいわ・みどり【車両の落成が間に合わず12月15日まで運休】が誕生しました。
白鳥号は、大阪発上野行きの信越白鳥と大阪発青森行きの青森白鳥を6両ずつ連結する12両編成で、へいずれの編成にも食堂車が連結されるというなんとも豪華な編成でした。
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昭和38年10月からは14両の堂々たる編成に
昭和37年には、信越白鳥は、キハが1両増結される7両編成に、更に昭和38年10月の改正では、青森白鳥も7両編成となり堂々の14両となりました。
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なお、当時の信越白鳥は、アプト区間である横軽を通過しています。
通常のブレーキ装置では、横軽区間のラックレールにブレーキシューが支障することが判明し、ここを通過できる車両は空気バネ付でかつディスクブレーキを備えた車両が使われることとなり、急行与党してはキハ57形が、特急用としてはキハ80形の2次車からはディスクブレーキが採用されました。【後にはつかり形の初期車もディスクブレーキ方式の台車に置換えられ、元々のはつかり用の台車はキロ28等に転用されたようです。
昭和40年10月 信越白鳥を分離、上越線経由の「はくたか」として独立
昭和40年10月の改正では、信越白鳥が分離します、既に粘着運転になっていたとはいえ安全上の理由から8両までに制限されていたこともあり、上越線経由に変更のうえ、名称も「はくたか」と変更して堂々の11両編成で運転を開始しました。
まだ、この頃には489系は誕生していませんでした。

キャプチャ2

昭和47年、白新線・羽越本線の鉄道の電化により485系電車に衣替え
白新線・羽越本線の電化が完成したことから、青森白鳥も晴れて電車に変更となり若干にスピードアップも行われます。
当時の白鳥には、常に最新の車両が投入されていたようで、200番代が白鳥に使われているのを見た記憶があります。
キャプチャ3

北海道向け車両も一年間ほど運用に入ることに
昭和49年から一年間は、北海道用に製造された485系1500番台が充当されていました。
この車両は限定運用で有ったこともあり、前面の愛称表示もステッカーを上から貼っており異色の存在ではありました。

 昭和57年からは2往復に 昭和60年3月からは再び1往復に
ダイヤ改正により、金沢駅 - 青森駅間の急行「しらゆき」を発展的解消させて、福井駅~青森駅間で1往復を増発。
福井駅 - 青森駅間の「白鳥」1・4号を系統分割、「北越」・「いなほ」とし、白鳥は再び1往復になります。
JNR_485_Hakucho_Yamazaki

画像 wikipedia

なお、昭和61(1986)年から、向日町から上沼垂運転区に変更そのままJRに移行、民営化後もJR東の車両と社員が大阪まで乗務することになりました。
その後、平成9(1997)年に再び白鳥は、向日町受け持ちとなりました。
白鳥廃止時まで、受け持ちはJR東日本の車掌が担当していたそうです。
(誤りである旨、指摘を頂きましたので訂正させていただきました。ありがとうございました。)



本日は、「特急あずさ」のお話をさせていただこうと思います。
JR東日本では、3月の改正で、停車駅の整理と定期列車をE353系に統一することでスピードアップを図るようですが、これは高速バスへの対抗だと思われますが、今まで停車駅であった駅にしてみれば利便性という点でマイナスになってしまいます。
この選択が吉と出るか凶と出るか、検討する必要があるかと思います。
ここでは、今回の措置の良否ではなく、国鉄時代【昭和41年】の誕生当時のお話しをさせていただこうと思います。
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昭和41年12月号時刻表
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特急あずさ運転開始を告げる案内
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特急あずさ1号の時刻表

あずさ、あさまは、公募で誕生した
当時の記事を参照しますと、下記のように書かれています。
新設列車の事前宣伝で、決定愛称は夏山シーズンの最盛期である八月をねらい1、もう一度大々的に駅や列車内にポスターを出して、新特急登場の前景気をあおる計画である。本計画は去る五月二十日愛称公募の新聞発表を行なうとともに、5月25日から東京国電、上信越中央各線の列車内、関東、甲信越地方の全駅に、181系電車(旧こだま型)のへッドサインに?をあしらったポスターを一斉に掲出、補助媒体として時刻表を使用した。この結果早くも五月中に8,785通の応募があり、その後日を迫って憎加、6月10日消印までのものを、14日17時締切ったが、約半月間でその数実に7万園6,461通、一日平均約5,000通という盛況であった。
ベストテンは
信越線
  1. あさま(2,981通)
  2. 千曲(1,492通、以下略)
  3. 信濃
  4. みすず
  5. 善光寺
  6. 黒姫
  7. 白樺
  8. 山彦
  9. 信濃路
  10. うすい
中央線
  1. あずさ(1,935通)
  2. 雷鳥(1,091通以下略)
  3. アルプス
  4. かもしか
  5. やまなみ
  6. すわ
  7. 美鈴
  8. 山彦
  9. 蓼科
  10. こまくさ
という結果が出たが、それぞれ現在使用中の愛称が割合い多く入っており、また両線に共通するイメージを与えるものもあり、結局双方最多数票を獲得した「あさま」、「あずさ」を採用することとした。

引用 国鉄線昭和41年9月号
特急あずさが誕生したのは、昭和41年12月改正から
本来であれば、昭和41年10月の改正で、あさまと一緒に誕生するはずだったのですが、複線化の完成が遅れたため、デビューが2か月遅れたと言われています。
当時の資料等を参照しますと
  • 大月~初鹿野間のうち、大月初狩~笹子間は11月中に完成
  • 笹子~初鹿野間6.1kmが12月12日
  • 青柳~茅野間(1.1km)は12月5日
に複線使用開始したと記録されています。
結果的に、笹子~初鹿野間の複線化を待ってあずさがデビューしたことになります。


「あずさ」は「とき」と共通運用
「あずさ」と「とき」は、共通運用とされましたが、同時期に誕生した「あさま」は横軽間を通過するため、編成は8両に限定されるため、下記のように編成が異なっていました。
これにより、「あさま」に関しては、食堂車の連結が行われず、特急としては異色となりました。
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「あさま」と「あずさ」は編成が異なるため、運用は分けられており、「あずさ」は「とき」との共通運用が組まれていました。
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鉄道ファン第64号 昭和43年10月号から引用

クハ180形誕生と食堂車誕生

今回の「あさま」・「あずさ」増発で新製された181系は45両で、内訳は以下のとおりでした。
  • モロ181(Ms)・・・・  101~103
  • モロ180(M's)・・・・ 101~103
  • モハ181(M)・・・・・101~112
  • モハ180(M')・・・・・101~112
  • クハ181(Tc)・・・・・101~108
  • クハ180(T'c)・・・・・101~104
  • サシ.181.(Td)・・・・・101~103
の合計45両が新製されました。
【注:昭和41年の製造当時、その後昭和44年に増発用として、5両追加で製造されています】

サロ181・5両、サロ180・2両、サハ181・3両が転用で向日町から転用されています。なお、サハ181はサロ151もしくはサロ181からの改造です。
赤文字は、横軽対策が施された車両を示しています。

あさまに食堂車を連結しないこととしたため、一つ問題が生じました。
それは、従来の特急車両は食堂車でジャンパー線をクロスさせることで、制御車を共用できたのですが、食堂車が連結されないため、それが不可となりました。
当時の181系ではジャンパー線の種類が異なり、485系のように制御車側で両方の受け口を設けることが出来なかったため、「あさま」の上野向き専用制御車として製造製造されました。
また、食堂車は、中央線「あずさ」用として製造されたため【実際には「とき」と共通運用】、壁に穂高岳などがイメージできるレリーフを取り付けたほか、レジカウンター付近には、道しるべをイメージする飾りが採用された他、ベネシアンブラインドが採用され、その後583系や381系、更に14系寝台車の食堂車などにも採用されました。img608

はつかり号は、常磐線?東北本線?
はつかり号と言う言葉を聞いて、青森行きの特急であったという答えはすぐ返ってくるのですが
さて、東北本線経由それと常磐線ですかと質問されるとどうでしょう?

実は、私も「はつかり」と聞くと東北本線のイメージが強くて、常磐線の特急は、「みちのく」では?と言う方も多いのでは?

実際には、非電化時代は、「はつかり」は常磐線経由でしたが、これは東北線よりも勾配区間が少なく、時間的に有利であったため、「はつかり」は常磐線経由になっていたそうです。
はつかり号は、キハ81時代は常磐線経由だった
はつかり号は、キハ81形を先頭とするボンネット車で誕生、上野~青森間を10時間43分で結んでおり、上野を13:15に出発、青森へは23:58に到着、00:20 青森発の11便と接続、4:50 函館着で、5:10急行石狩【札幌行・千歳線・室蘭線経由】、5:30急行大雪【旭川行き・函館本線経由】と接続していました。
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時刻は、昭和35年3月の時刻表を参照

ヨンサントウで特急はつかりは2往復に増発の上電車化、東北本線経由に

昭和43年10月改正で、はつかりは晴れて電車化、東北線の代表特急へ成長します、その後は東北新幹線が、盛岡まで開業するまでの間、東北路の顔として活躍していました。
昭和43年10月改正の時刻は下記の通り
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ちなみに、特急「みちのく」が運転を開始するのは、昭和47年3月の改正で臨時特急として運転を開始しています。

583系はつかりが常磐線を走った?

実は、「はつかり」号ですが、東北本線で走り出す前に約1ヶ月間常磐線を走行していました。
にわかに信じがたいかと思うのですが、鉄道ファン、通算90号 昭和43年12月号のニュース欄に、常磐線に9月から一足先に常磐線の「はつかり」電車に置き換えられたという記事が書かれています。
当時の鉄道ファンの記事
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解説では、三河島付近を走る「はつかり」と書かれています。


まぁ、正式開業前に置き換えて運転士の習熟を図ることは良くある話ですが、運転区間が常磐線→東北本線に変わるのに、常磐線で、気動車ダイヤのままで、583系に置き換えたというのは正直驚きです。
昭和43年9月時刻表はこちら
s4309

時刻表一つ取っても色々調べて見ると面白いことが見つかりそうです。


ヨンサントウの時刻表から
ひょんな事から、昭和43年3月のjtb版時刻表【当時版】が手に入ったので、この時刻表を参照しながらお話をさせていただこうと思います。

ということで、今回は中央線の時刻表を見ていただこうと思います。
昭和43年10月の改正、中央道など高速道路は開通して居らず、山梨方面への利用はもっぱら鉄道であり、夜行列車も多数運転されていたようです。
臨時の夜行列車が多いのが特徴と言えましょうか。
中央アルプス登山の利用者向けの列車が多いことが目につきます。

臨時列車ではありますが、岡谷行き、甲府行きと、00:20~00:50迄の30分間に、3本の列車が運転されています。
連続して3つの列車が運転されています。
特に八ヶ岳高原号は、小淵沢から野辺山に直通する列車で7:31に野辺山到着となっていますが、定期列車併結では無く蒸気機関車牽引だったのでしょうか。
23.4kmの距離を一時間半程かかっています。
同じ時間帯で運転sれる気動車列車は、出発が6:24と遅いにも関わらず、7:13には野辺山に到着しており、30分も運転時間に差が出ています。

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新宿と言えば「アルプス広場」が現在もあるようですが、登山客のメッカというイメージがありました。現在は、バスターミナルが駅前に出来て、夜行列車からすっかり、夜行バスにそのお株を奪われてしまった感がありますが、昭和43年当時の時刻表を見ますと、アルプスという愛称の急行が多数走っています。
165系が投入されていましたが、中央線の狭小トンネルを通過するため、パンタグレ不文を低屋根にした800番台が増備され【その後、PS23形パンタグラフが開発され低屋根化は必要なくなりました.】ていました。
非冷房時代は、扇風機に代えて10系客車などで見ることが出来たラインデリアが装備されていたように記憶しています。
また、個々で注目したいのは、8:10発の急行「甲州ぶどう号」でしょうか。
この列車には、「ワ」の文字が見えますが、これは、ワッペン列車と呼ばれるもので、当該列車に乗車する前にワッペンを購入すると座席が確保されるというものでした。【指定席では無く、個々の席は自由に選べる、乗車整理券と呼ばれるものでした】

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そして、こうして見ると、当時は急行が幅を利かせているのがよく判るかと思います。
当時は、特急列車は特別な列車であり、急行列車が現在の特急列車の位置づけでした。
いわば、クルーズトレインより料金を安くして毎日運転するのが特急であり、急行は庶民が利用する特急、そんな時代だったのです。

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夜間時間帯になりますと、22:30~23:50迄の約一時間半の間にこれまた臨時列車が多数ありますが、集中して運転されているのが判ります。
当時のアルプス10号・11号は、大糸線の南小谷迄直通運転されていますが、今ではちょっと考えにくいのではないでしょうか。
それ以外では、23:55発に長野行きがありますが、長野着は10:16となっておりますが、甲府あたりノン分最終版を配送する輸送もになっていたかもしれないですね。
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日本万国博覧会は、約7割が鉄道を利用すると予測されていました。大阪市営地下鉄を延長して万博会場までの路線を建設することを計画しましたが、大阪市営地下鉄が吹田市まで延長することに批判も多く、最終的に阪急と大阪府、関西財界などが出資した第3セクター鉄道として開業することになりました。
この辺は、多くの本で既に書かれていますので、ご存じの方も多いかと思います。

今回は、1970年の時刻表を参考に、「エキスポこだまと新幹線」
というタイトルで書かせていただこうと思います。
新幹線初の夜行列車?
エキスポこだま・・・既に御存じの方も多いかと思いますが、上り列車だけ運転された夜行列車で、大阪~三島間に運転されていました。
実は、この列車3月の時刻表では設定されていませんでした。
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3月発行の時刻表【復刻版から】

恐らく、国鉄もこれ程利用者が増えると予測していなかった節があります。
急激に増えた観客輸送
当時の夜行列車は、広島発の安芸。姫路始発の銀河2号、大阪始発の銀河1号で大阪からの旅客を受けることとし、それ以外に銀河全車座席指定の銀河51号・52号、団体枠で銀河71号(団体枠で満員の可能性がありますと言う表記付】が運転されていましたが、7月前後から万博の輸送は急激に増え始めたそうで、国鉄としても看過することはできなくなりました。

早駆けの新幹線と門限破りの新幹線

そこで、新幹線の早朝運転と、深夜運転、さらには、「エキスポこだま」とい珍列車を設定しました。
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昭和45年6月22日改訂の時刻表

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昭和45年7月、蒸気時刻表の拡大

新幹線はその開業以来、上下線とも6:00始発を守っていました、これは現在も基本的には変わっていないのですが、6月22日のダイヤ改訂で、5:40発東京行き、ひかり332号が設定され、東京駅に8:50に到着する列車が(8月17日→8月21日)運転されるようになりました。さらに、少し左側をみますと、今回のお話の「急行エキスポこだま」なる列車が載っています・・・。

どんなダイヤだったのか?

三島駅を7:05に出発する列車で、東京駅には8:10に到着。
この列車の乗客であれば、比較的会社から近いところであれば万博を見て~出勤なんて事も可能だったかもしれないですね。


これは、前年に完成した三島駅の電留線を活用することで可能となりました。
元々、三島の電留線は、熱海駅までの需要があり、その列車を以前は静岡まで回送させていたのですが、76キロメートルも回送するのは経済的では無いため、三島に電留線を設けるとともに、駅を設置したことが始まりであり、熱海から16 kmしかないことは異例といえば異例でしたが、エキスポこだまは、この施設をうまく活用して、在来線の夜行列車が8:00~9:30の間長距離列車は到着できないという問題を軽々とクリアしたのでした。
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なお、この列車に関しては、新幹線の案内の中で下記のように記されていました。
大阪~三島間を在来線、三島~東京間を新幹線で結ぶ「エキスポこだま」が運転されます、【大阪発7月3日~9月13日まで運転、大阪発 22:58、東京着 8:10)この列車は特急・急行料金、指定席料金がそれぞれ特別割引になっています。
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当時の万博案内

他にも、新大阪始発の最終列車が、新大阪 21:10、東京に0:20に到着する、ひかり326号が設定されていました。 
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民族大移動と言われた、万国博覧会でしたが、今から振り返ると国鉄も魅力的な列車が多数運転されていたことが窺えます。

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