blackcatこと鉄道ジャーナリスト 加藤好啓 国鉄夜話

国鉄時代の写真並びに時刻表などを中心にアップさせていただきます。 国鉄に関する資料等も順次アップさせていただきます。 取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に blackcat.kat@gmail.comにメール またはメッセージ、コメントにて お待ちしております。

タグ:国鉄

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昭和33年特急「こだま」が電車特急として誕生することになったとき、愛称の公募が行われました。その当時の国鉄線の記事を参考に少しだけ書かせていただこうと思います。
画像は、伯備線を走る381系「いずも」ですが、この先頭車に設けられている特急マークですが、これ
は国鉄時代の象徴ともいえるものであり、特急電車には185系に至るまでも設置されていました。IMG_7549
国鉄の分割・民営化が既定路線となった昭和61年に製造された185系や183系500番台では国鉄時代に製造された車両とはいえ、特急の象徴であったマークの設置は見送られました。
1280px-JNR-DC-Kiha185-11
185系気動車 画像 Wikipedia

特に185系は、そのデザインが183系500番台よりも簡素に見えたので、急行型のようにも見えました。さて、それは余談ですが、当初の特急マークは現在とは少し異なっていました。
それは、当時の資料の画像から少し加工したものですが、WXPRESSの文字が入っています。

キャプチャ
最終的にはデザイン的なものがあって、省略されたのですが「EXPRESS]の文字が入るだけでぐっとレトロと言いますか、昭和を感じてしまいますね。

さて、当時の記事を見ますと、6月末に決定したと書かれています。
応募総数9万2864通、そのうち無効扱いが2万1187通であり、将来的に使用を予定している、「富士」を除くと、
1位 はやぶさ 5957票
2位 はやて  2360票
3位  暁      1734票
以下一次選考で24点に絞られたそうです。

最終的に、行って帰ってくるということで、下記のとおり決定者は
入選 こだま
佳作 さくら(「さちかぜ」は「あさかぜ」と紛らわしいためでした。
外に、佳作として、「はやぶさ」「初雁(はつかり)」「平和」が決定したそうです。
「平和」は大阪~広島間の特急列車に使われましたが、広島電化延伸で「つばめ」が延長運転となり発展的解消で廃止となり、短命特急の一つとなりました。
その後、「平和」と言う名称の特急列車は誕生していません。

入選者の決定は、特急「こだま」と書いた人の中から公開抽選で行われ、各社記者が見守る中、はがきの山の中から、長崎県の女性が見事射止めたそうです。
同様に佳作についても各1点ずつ選ばれたと言われています。

さらに、特急マークに関しては応募総数5537点から800点を選び最終的に三重県在住の男性のデザインが採用されることとなりました。

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修学旅行用電車と言う専用電車が有った頃

修学旅行用電車(気動車)というものがかって存在すると言うと奇異に感じられる人も多いのではないでしょうか。
昭和を遡ること50年以上前、昭和34年、国鉄で「修学旅行専用電車」が製作されました。
この電車は、前年に登場した153系をベースに修学旅行向けにカスタマイズされた専用電車で、製造も国鉄の予算ではなく利用債というものを発行してそれを引き受けてもらうという方式で製作されました。
京阪神地区並びに東京の中学校PTAなどが利用債を引き受ける形で国鉄が車両を製造したと聞いています。

国鉄が利用債(特別鉄道債券)が発行され償還期間は10年でした、償還期間終了後はの昭和46年以降は新幹線の利用が一般的になってきたこともあり、修学旅行用電車の運用は終了しました。
それ以後は、湘南色になって153系と混用されて、主に臨時列車用として使われるようになったそうです。

修学旅行電車が出来る前は引率の先生は大変
さて、修学旅行電車が出来るまでは引率の先生は大変でした、というのも当時は寄せ集めの客車などが使われるのが一般的でした、更に若い人には想像もつかないかもしれませんが、ドアはいつでも自由に開閉と言うか、ドア自体開放されたままですので、途中駅で降りて行方不明になった・・・なんてこともあったとか無かったとか・・・どちらにしても先生としても目が離せないという点で大変であったと言われています。
一時期、80系電車で運転したところ、途中駅でもドアを開けなければ勝手に降りることはないので先生の負担が軽減したことも、修学旅行電車を作る気運になったと言われています。

IMG_6004

修学旅行電車を作ろう
修学旅行電車は、国鉄への要望と言うことと、利用債を東京都及び京阪神修学旅行委員会等が引き受けることで話がまとまり、国鉄は車両を製造することとなりました。
ただ、155系は修学旅行用と言うことで特化した部分と、引き受け金額を少しでも抑えるために153系と異なる点がいくつかりました。
外観上で異なる点は、
  • 前面のスカートを省略した
  • 台車を空気ばねから101系などと同じ電動車はDT21A・付随車はディスクブレーキ装備のTR62
  • 車体屋根の高さが全体に低くなり中央線の狭小トンネルでも乗り入れれ出来るようになった。
155_series_Izu_Shinagawa

それ以外にも修学旅行電車として、独特の装備も設けられていました。
  • ドアの幅が70㎝と特急列車並みとなった。
  • シートの配置が在来線では初めて、2+3の座席配置として、座席の上に網棚が来る構造とした。
  • シートの上に蛍光灯が来る構造とした。
  • シーとの間にテーブルが置ける構造になっていた。
  • 調光式を採用し、夜間は照明の照度を下げて安眠しやすくした。
  • 修学旅行生向けに大型の洗面台、男子用小便器、他にも飲料水タンクを2個設置し、水筒に水を補給できるようになっていました。
  • 運転室の助士席側にはテープレコーダを設置して放送で流せるような仕組みも配慮されていたそうです。
  • さらに、先頭車の一部の座席では簡易ベッドに出来るようになっており、体調不良等の場合は休養できるようになっていました。
さらに、先頭車だけですが、速度計の電力に余裕があったことから二つに回路を分岐して運転台用並びに、客室にもスピードメータを付けていたそうで、これは原設計にはなく、メーカーの発案で取り付けられたそうで、修学旅行を一生の思い出にという親心と言ったところでしょう。

修学旅行電車は新幹線へ
修学旅行電車は、10年の償還期間が終わる以前から、利用債を引き受けていない私立学校などでは新幹線を利用していました、そこで利用債の終了を機に昭和6年以降からは新幹線での利用が一般的となり現在に至っています。

余談ですが、私が中学校の修学旅行で関東方面に行った際は、行きは新幹線、帰りはストライキの影響で新幹線も動かず、結局観光バスで熱海から和歌山まで帰ってくると言うとんでもない事態になりました。

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JR発足時の運転ダイヤ・・・実は昭和61年10月に作られました。
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昭和61年時刻表

昭和62年4月1日JR各社は発足しますが、運転ダイヤは昭和61年10月のまま、ということで国鉄時代のダイヤを踏襲していたことになり、本格的なJRのダイヤ改正は昭和63年3月のダイヤ改正まで待つ必要がありました。
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と言っても、実際のダイヤ改正の素案などは昭和61年頃からスタートしているので、昭和63年の改正も、基本構想は国鉄時代に出来上がっていたそうです。
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余談ですが、JR発足当初は、JR各社で設計図の使いまわしと言うか借用は有ったようで、
リゾートサルーン・フェスタの先頭車のガラスは、スーパーエクスプレスレインボーの下端を短くしただけで共通の設計図と言うか部品を使ったということも聞いたことがあります。
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リゾートサルーン・フェスタ

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スーパーエクスプレスレインボー

当時は分割したとはいえ、元々同じ国鉄と言う組織ですから、管理局が大型化したみたいな感じだったのではないかと思いますが、30年もたつとその辺の意識は薄れて来るようですね。

特に、東京駅の新幹線乗り場を見るとつくづくそう思います。
歴史にIFは無いけれど、分割されていなかったら東北新幹線が品川着だったリ、その逆に東海道新幹線が上野まで乗入なんてことも普通に行われていたんだろうなぁと・・・。-
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デスティネーションキャンペーンと言う言葉を良く聞くと思います。
JRグループ旅客6社と指定された自治体、地元の観光事業者等が共同で実施する大型観光キャンペーン
ですが、その映えある?第1回目は和歌山でした。
「いい日旅立ち」のキャンペーンソングの中で「特急くろしお」&「寝台特急紀伊」 が中心に出てきますね。
紀勢本線の電化と連動させて11月から開始されたキャンペーンで和歌山県も全面的に協力したキャンペーンで、「いい日旅立ち」は山口百恵を代表する曲になるとともに、世代を通じて愛唱される歌謡曲となったと言えましょう。



さて、そんな最初のキャンペーンに輝いた紀勢本線ですが、昭和53年当時は高速道路の延伸も無く、白浜・勝浦の紀南方面は鉄道輸送がほぼ独占状態であり、また両方とも近畿の奥座敷の観光地として賑わっていました。
ただ、当時から白浜以南の人口が希薄なこともあり、紀勢本線の電化は和歌山~新宮間となったものの、旅客輸送の需要が多い和歌山~白浜間約100㎞については積極的な取り組みがなされた反面、白浜以東は電化のみと成りました。
白浜までは旅客入り込みが望めるので複線電化等の線路改良も併せて行われました。
それにより、一部区間は線路付け替えが行われ、南部付近など、海岸線を走っていた区間の一部がトンネルで覆われてしまうようになりました。
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いただき物の画像から 天王寺駅にて

また、この電化により国鉄は381系100番台電車を新製投入するとともに、普通電車も113系2000番台が(一部新製配置)されました。
昭和51年には、乗務員訓練習熟用として、381系1編成が7両が先行導入されています。
なお、電化工事は6月頃には完成し、7月からは訓練運転を兼ねて一部の列車は電車に置換えられ手10月を迎えています。
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以前に新快速のお話をさせていただきましたが、今回は阪和線を走った新快速のお話です。
阪和線を走った新快速が誕生したのは昭和47年3月のダイヤ改正で新快速が誕生(新幹線岡山開業で153系が余剰となりその玉突きで153系で新快速を増発、15分ダイヤが組まれるのですが、本社から大鉄に配属されている冷房装置付き113系電車を天鉄にいどうさせろtるを天鉄局に転属させろと言うことでかなり大鉄と本社の間で揉めたそうですが、結局本社に押し切られる形で113系を手放したのですが、その車両を使って運転開始になったのが阪和線の新快速になるわけです。

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当時は103系快速が53分から56分、113系も52分くらいかかっていましたので、45分は夢のような速さでした。
口の悪いファンからは戦前のレベルにやっと戻ったと言う人もいたようですが、実際には戦前の(阪和鉄道時代)特急はのストップでしたからそれよりも間違いなく早くなったと言えましょうか。
当時の停車駅は鳳のみでしたが。1時間に1本、更に停車駅が鳳のみでは利用者はあまり見込めず、何時のってもがらgらと言う印象はありました。
ても空いているなぁと言う印象がありました。
ただ、梅雨時などは窓も開けられなかったので、冷房装置の存在は本当にありがたかったです。
結局、南海電車対策を兼ねての登場かと思われますが、結局利用者は伸びず、昭和52年には熊取・和泉砂川が停車駅に追加され、45分運転は不可能となり、49分まで後退してしまい、従前の快速と5分程度しか変わらなくなりました。
更に昭和48年の関西線(湊町~奈良)の電化開業以降は春日塗の113系も新快速運用に入るときがあり、一度だけ梅雨時の雨の日写真撮影に行ったら、113系春日塗が新快速運用に入っていて、ちょっと乗っている人は蒸し暑かろうと同情したものでした。
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珍しいところでは、他にもこんな事例がありました。
それは、103系による新快速代走でした、昭和49年(1974年6月号の読者投稿で、3月22日阪和線で架線事故があり、車両のやりくりが付かなかったとのことで、103系による代走が走ったそうです。
この話は、意外と知らない人が多いのではないでしょうか?
ここにご披露させていただきます。
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画像はイメージです。

下記の記事は、実際に鉄道ピクトリアルに掲載された記事
1974年6月号から引用
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国鉄があった時代 JNR-era

 

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