blackcatこと鉄道ジャーナリスト 加藤好啓 国鉄夜話

国鉄時代の写真並びに時刻表などを中心にアップさせていただきます。 国鉄に関する資料等も順次アップさせていただきます。 取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に blackcat.kat@gmail.comにメール またはメッセージ、コメントにて お待ちしております。

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時刻表がらみのお話ばかりでは面白くないだろうと言うことで、時々各鉄道博物館に保存されている車両について、随時解説を加えさせていただきます。
まず、最初に取り上げるのは161系(博物館では、クハ181形式電車(車号 クハ181-45)1965(昭和40)年製造と書かれていますが実はこの標記正しくありません。
確かに改造で1965年に181系40番台として誕生で正しいのかもしれませんが、より正しく表記するのであれば、161系昭和37(1962)年製造の車両を151系共々改造した車両と表現すべきであり、屋根部のウインカーも再現(ダミー)したのであればなおさら、161系として保存展示して欲しかったなぁと言うのが正直な感想

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http://www.railway-museum.jp/zone/history/04.html#04

さて、ここで161系について簡単に解説を加えさせていただきますと。
昭和37年6月に電化開業する上越線用に当初は151系を増備しようと言う案があったそうですが、急勾配区間が続くこともあり、157系と151系で上越線で試運転を行ったそうですが、151系は瀬野八で区間でも機関車の補機が必要であったように、途中でモーターの過熱を起こして運転が難しいことが判明、逆に同じモーターでも歯数比を変更した157系は何の問題もなく運転できたことから157系の足回りに151系のボディを載せた車両を161系として15両が製造されたそうです。
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その後、MT46A形より出力を20%向上させたMT54が開発され、新幹線開業後に余剰となる151系を上越線特急の増発に充てるとともに、従来の161系も改造により181系に統合されることになりました。
特に181系40番台は、短スカート(これはスノープロウをスカート下に取り付けるため)が特徴であり、161系のオリジナルを残す貴重な車両でもあります。
説明書き並びに、181系-40番台から161系に復元して欲しいなぁと言うのが正直な感想です。
私の勘違いをご指摘いただきましたので、ていせいさせていただきます。
クハ181-44・45の2両は161系として発注されるのですが、落成時にはクハ181-44・45として落成したそうです。
ということで、161系の流れをくむ181系という表現がより正しいと言うことになります。
お詫びして訂正いたします。
申し訳ございませんでした。

取材・講演などお待ちしております。
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http://jnrera3.webcrow.jp/contact.html

現在、東海道線を走る夜行列車と言えるのは、サンライズだけとなってしまいました。
この列車も、かつての出雲と瀬戸が併結した列車ですが。
今回は、昭和31年当時の時刻表から、しばし見場様に時間旅行していただこうと思います。
昭和31年12月号を参照したいと思います。

さて、その前に昭和31年とはどんな時代だったのでしょうか。
東海道本線が昭和31年11月19日に電化が完成、それに伴うダイヤ改正もあったようです。
昭和31年11月から一部抜粋
http://jnrera3.webcrow.jp/nenpyou/shouwa_JNR/s_31_5.html
  1. 東海道・山陽・九州線 東京~博多間特急「あさかぜ」(2、3等寝台車、食堂車付 所要17時間25分)
    東京~大阪間 急行「なにわ」食堂車付(和食堂付)、
    不定期急行「彗星」(二等寝台車付)、
    京都~熊本間 急行「天草」(3等寝台車付)
    京都~長崎間急行「玄海」(大村線経由・3等寝台付)新設
    京都~広島(呉線経由)・宇野間準急、
    広島~長崎間準急各1往復新設 注:
    東京~博多・都城間急行「げんかい」の都城行きを単独運転、
    西鹿児島へ延長「高千穂」とする。(日豊線経由、2.3等寝台車、食堂車付)
    東京~宇野・大社間急行「せと」の併結をやめ宇野行き「瀬戸」(3等寝台車付)大社行き「出雲」福知山線経由、2.3等寝台車付)を個別運転する。
    東京~佐世保間臨時急行「西海」、
    東京~博多間臨時急行「早鞆」を定期化(いずれも2.3等寝台車、食堂車付)、
    「早鞆」は「筑紫」と改称、呉線経由を山陽本線経由に変更)
    東京~鹿児島間急行「筑紫」は「さつま」と改称。(その後列車自体が消滅)
    東京~大阪間特急「つばめ」「はと」の到達時分を30分短縮、7時間30分とする。
    東京~神戸間急行電車の一部を米原始発としローカル列車を電車化。
  2. 山陰線京都~松江間準急1往復増発
  3. 紀勢線
    新宮~天王寺間準急下り1本増発
  4. 予讃線
    高松桟橋~宇和島間不定期準急1往復増発
  5. 東北・奥羽間
    急行列車 上野~青森間「おいらせ」
  6. 上越・羽越線
    上野~新潟間急行「佐渡」増発。
    上野~青森間不定期急行「津軽」秋田打切り、定期化「羽黒」(3等寝台車付)とする。
    高崎線上野~高崎間通勤列車を主体に電車化。
  7. 日本海縦貫線
    大阪~富山間急行「立山」、
    大阪~金沢間準急一往復新設。
    上野~大阪間急行「北陸」を福井打切りとする。
  8. 北海道線
    函館~札幌間臨時急行「洞爺」を定期列車化「すずらん」と改称。
  9. 田端から田町間線路増設し、山手・京浜東北線の分離運転開始
汐留~梅田間にコンテナ専用列車「たから」新設 11/19
山手線 田端~田町間線増完成。京浜東北線と分離運転開始 11/19

さて、そんな昭和31年は、後に首相になる池田勇人が大蔵大臣に入閣、造船業は12月には生産量世界一になるなど急速にその力を拡大していく時期でもありました。
さて、そえでは前置きが長くなりましたが、昭和31年12月時刻表による急行出雲の、東京から出雲大社・浜田までの紙上旅行をお楽しみくださいませ。
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実は、出雲の表示が見えませんが、丁度綴じ目付近に書かれており、さすがに、昭和31年当時の原本をこれだけのためにばらす勇気がありませんの。
かすかに福知山という文字が読めるかもしれません。
当時の出雲は、山陰本線経由ではなく大阪夜行の救済も兼ねて東京~大阪(福知山線)経由で浜田市に向かっていました。

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急行出雲は、大阪9:16着、9:40発として浜田市を目指すのですが、完全に昼行列車と言えそうです。
当時の編成は2等・3等(2等車は特別2等車付)にB&C寝台ということで旧1等寝台開放室と旧形2等寝台が連結されていることが判ります。編成表を見ると14両の堂々たる編成であったことが判ります。
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寝台車は、大阪で開放していますので宮原で整備されたのでしょう。

9:40に大阪駅を出発すると福知山線を走って、浜田市を目指します。
その後この時間帯のダイヤは、「急行だいせん」が踏襲することになります。
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福知山線では宝塚・三田・篠山口・谷川・柏原に停車しているようです。

福知山線からは。山陰本線をひたすら西に進み特ロを挟む4両編成がそのまま出雲大社まで、浜田編成は並ロ+3等車4両編成という編成であり、大社線の方が風格が有りました。
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現在のJRでは、列車種別は、特急・快速・普通(快速も普通電車ですが)となっています。
嘗ての国鉄時代には、特急・急行・普通(快速を含む)と3種類の列車がありました。

更に遡って、昭和30年代の時刻表などを参照しますと、特急・急行・準急・普通という4つの種別があります。
戦前は、準急は実質快速列車のようなもので準急行料金は不要でしたが、戦後国鉄発足後は準急料金も必要になりました。

国鉄はご存じのとおり昭和39年(1964)から赤字決算になったのはご存じのことと思いますが、増収の思惑もあって、昭和41年3月の運賃改定時に、100km以上走行する準急列車は急行に格上げすることとしたのです。

元々、準急という列車種別が設けられていました。
当時の特急は文字通り特別な急行列車であり、庶民が簡単の乗れる・・・そんな代物ではなかったのです。
自ずと急行列車が庶民の特急で有ったわけです。
ただ、戦後の荒廃で車両の整備もままならず、ローカル線の列車等では古い客車を使わざるを得ず、そんな列車に急行料金を取るのも憚られることから、準急行として走らせていたという経緯もあります。
実際には、関西線の「準急かすが」のように普通列車でも評判の悪かったキハ17系をわざわざ当時の準急色に塗り替えて、キロハ18と呼ばれる半室2等車(グリーン車)を連結させていたというとんでもない列車等がありました。

急行列車の急行料金というのはそうした意味では、設備料金という位置づけだったのです。

実際には、準急東海のように153系電車が投入され、客車急行よりも早く快適な列車もあったりしました。
実際には客車列車や急行電車にはリクライニングシートの2等車(グリーン車)や食堂車(ビュフェ含む)といった供食設備も充実しており昨今の在来線特急よりもサービスは良かった部分もありました。

しかし、その御車両の増備が続いたことで、気動車でしたらキハ28・58による急行列車の他間合い運用で準急列車等にも入るようになると、いよいよ準急=安かろう・悪かろう では無くなってきたことや、増収の思惑から、100km以上走行する準急列車は一斉に急行になったのです。
一部の列車では100km未満でも併結列車が急行の場合は急行を名乗ることになりました。
昭和41年10月の改正で、名古屋~北濃間で運転を開始した「急行おくみの」は全線70kmほどですが、急行たかやまと併結のため、急行扱いになっていました。
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昭和41年10月の時刻表から引用

下図の時刻表を見ていただくと、同じ列車名でありながら昭和40年10月の時刻表では準急に、翌年の昭和41年10月時刻表では急行列車になっています。
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昭和40年まで準急であった、みささ、かいけ、砂丘等は準急になっています。
初乗り運賃が10円から20円に上がり、かつ準急時代はどこまで乗っても100円だったのが、距離に応じて100円~500円の間となり、「みささ」で大阪から鳥取まで乗車すると、今まで100円であった列車券が300円と急行料金だけで3倍になった計算になります。

参考までに、昭和40年の準急並びに急行料金と昭和41年の準急並びに急行料金をご覧ください


昭和40年の運賃表、300kmでと300km以上という分け方となっています。
長距離になるほど割安と言えます。
なお、1等(現・グリーン車)の端数は通行税が1割かかるためです。
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昭和41年10月時刻表
100km~1000km以上までの地帯区分が細分化し200kmまでは同額ですが401km以上はかなり大きな値上げになりました。

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なお、現在は定期列車として残っていた、急行「銀河」や、「きたぐに」が廃止されたことに伴い、定期列車の急行列車は走っていませんが、JR東日本・東海で下記のような列車が走っているようです。

JR東海 急行「飯田線80周年秘境駅号」 373系使用
JR東日本 急行 「ぶらり横浜・鎌倉号」 651系使用

だそうです。
ご教示いただきましたので追記させていただきました。
ありがとうございます。

3
昭和33年特急「こだま」が電車特急として誕生することになったとき、愛称の公募が行われました。その当時の国鉄線の記事を参考に少しだけ書かせていただこうと思います。
画像は、伯備線を走る381系「いずも」ですが、この先頭車に設けられている特急マークですが、これ
は国鉄時代の象徴ともいえるものであり、特急電車には185系に至るまでも設置されていました。IMG_7549
国鉄の分割・民営化が既定路線となった昭和61年に製造された185系や183系500番台では国鉄時代に製造された車両とはいえ、特急の象徴であったマークの設置は見送られました。
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185系気動車 画像 Wikipedia

特に185系は、そのデザインが183系500番台よりも簡素に見えたので、急行型のようにも見えました。さて、それは余談ですが、当初の特急マークは現在とは少し異なっていました。
それは、当時の資料の画像から少し加工したものですが、WXPRESSの文字が入っています。

キャプチャ
最終的にはデザイン的なものがあって、省略されたのですが「EXPRESS]の文字が入るだけでぐっとレトロと言いますか、昭和を感じてしまいますね。

さて、当時の記事を見ますと、6月末に決定したと書かれています。
応募総数9万2864通、そのうち無効扱いが2万1187通であり、将来的に使用を予定している、「富士」を除くと、
1位 はやぶさ 5957票
2位 はやて  2360票
3位  暁      1734票
以下一次選考で24点に絞られたそうです。

最終的に、行って帰ってくるということで、下記のとおり決定者は
入選 こだま
佳作 さくら(「さちかぜ」は「あさかぜ」と紛らわしいためでした。
外に、佳作として、「はやぶさ」「初雁(はつかり)」「平和」が決定したそうです。
「平和」は大阪~広島間の特急列車に使われましたが、広島電化延伸で「つばめ」が延長運転となり発展的解消で廃止となり、短命特急の一つとなりました。
その後、「平和」と言う名称の特急列車は誕生していません。

入選者の決定は、特急「こだま」と書いた人の中から公開抽選で行われ、各社記者が見守る中、はがきの山の中から、長崎県の女性が見事射止めたそうです。
同様に佳作についても各1点ずつ選ばれたと言われています。

さらに、特急マークに関しては応募総数5537点から800点を選び最終的に三重県在住の男性のデザインが採用されることとなりました。

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修学旅行電車と言う専用電車が有った頃
修学旅行用電車(気動車)というものがかって存在すると言うと奇異に感じられる人も多いのではないでしょうか。
昭和を遡ること50年以上前、昭和34年、国鉄で「修学旅行専用電車」が製作されました。
この電車は、前年に登場した153系をベースに修学旅行向けにカスタマイズされた専用電車で、製造も国鉄の予算ではなく利用債というものを発行してそれを引き受けてもらうという方式で製作されました。
京阪神地区並びに東京の中学校PTAなどが利用債を引き受ける形で国鉄が車両を製造したと聞いています。

国鉄が利用債(特別鉄道債券)が発行され償還期間は10年でした、償還期間終了後はの昭和46年以降は新幹線の利用が一般的になってきたこともあり、修学旅行用電車の運用は終了しました。
それ以後は、湘南色になって153系と混用されて、主に臨時列車用として使われるようになったそうです。

修学旅行電車が出来る前は引率の先生は大変
さて、修学旅行電車が出来るまでは引率の先生は大変でした、というのも当時は寄せ集めの客車などが使われるのが一般的でした、更に若い人には想像もつかないかもしれませんが、ドアはいつでも自由に開閉と言うか、ドア自体開放されたままですので、途中駅で降りて行方不明になった・・・なんてこともあったとか無かったとか・・・どちらにしても先生としても目が離せないという点で大変であったと言われています。
一時期、80系電車で運転したところ、途中駅でもドアを開けなければ勝手に降りることはないので先生の負担が軽減したことも、修学旅行電車を作る気運になったと言われています。

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修学旅行電車を作ろう
修学旅行電車は、国鉄への要望と言うことと、利用債を東京都及び京阪神修学旅行委員会等が引き受けることで話がまとまり、国鉄は車両を製造することとなりました。
ただ、155系は修学旅行用と言うことで特化した部分と、引き受け金額を少しでも抑えるために153系と異なる点がいくつかりました。
外観上で異なる点は、
  • 前面のスカートを省略した
  • 台車を空気ばねから101系などと同じ電動車はDT21A・付随車はディスクブレーキ装備のTR62
  • 車体屋根の高さが全体に低くなり中央線の狭小トンネルでも乗り入れれ出来るようになった。
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それ以外にも修学旅行電車として、独特の装備も設けられていました。
  • ドアの幅が70㎝と特急列車並みとなった。
  • シートの配置が在来線では初めて、2+3の座席配置として、座席の上に網棚が来る構造とした。
  • シートの上に蛍光灯が来る構造とした。
  • シーとの間にテーブルが置ける構造になっていた。
  • 調光式を採用し、夜間は照明の照度を下げて安眠しやすくした。
  • 修学旅行生向けに大型の洗面台、男子用小便器、他にも飲料水タンクを2個設置し、水筒に水を補給できるようになっていました。
  • 運転室の助士席側にはテープレコーダを設置して放送で流せるような仕組みも配慮されていたそうです。
  • さらに、先頭車の一部の座席では簡易ベッドに出来るようになっており、体調不良等の場合は休養できるようになっていました。
さらに、先頭車だけですが、速度計の電力に余裕があったことから二つに回路を分岐して運転台用並びに、客室にもスピードメータを付けていたそうで、これは原設計にはなく、メーカーの発案で取り付けられたそうで、修学旅行を一生の思い出にという親心と言ったところでしょう。

修学旅行電車は新幹線へ
修学旅行電車は、10年の償還期間が終わる以前から、利用債を引き受けていない私立学校などでは新幹線を利用していました、そこで利用債の終了を機に昭和6年以降からは新幹線での利用が一般的となり現在に至っています。

余談ですが、私が中学校の修学旅行で関東方面に行った際は、行きは新幹線、帰りはストライキの影響で新幹線も動かず、結局観光バスで熱海から和歌山まで帰ってくると言うとんでもない事態になりました。

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