加藤好啓 国鉄夜話

国鉄時代の写真並びに時刻表などを中心にアップさせていただきます。 国鉄に関する資料等も順次アップさせていただきます。 取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に blackcat.kat@gmail.comにメール またはメッセージ、コメントにて お待ちしております。

タグ:優等列車

名古屋~京都間を結んだもう一つの急行
昭和60年3月の改正で廃止になった、急行平安という列車をご存じだろうか?
名古屋~京都を関西線・草津線経由で結んだ列車で、この列車は誕生当初から、単独運転が行なわれたことはなく、常に他の列車と併結されて走る列車でした。
今回は、そんな急行平安のお話をさせていただこうと思います。

昭和37年4月ダイヤ改正で誕生
昭和37年4月15日のダイヤ改正で、関西線・草津線経由の気動車準急「平安」が2往復設定されます。
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桑名から15:45に平安2号とあるのは、数の運用図のとおり折り返し運用で入るためです。

4両編成のなのですが、この列車柘植までは、「急行かすが」との併結運転となり、柘植~京都間のみ単独運転となります。
ちなみに、運用イメージはこんな感じです。準急平安

名古屋まで戻らず、桑名で折り返すのは、名古屋まで行くと、もう一編成必要になるためでした。
桑名で20分ほどの折り返しで、再び西下、亀山駅で準急鳥羽・勝浦を併結して、京都に戻り、京都で鳥羽・勝浦を解放して、再び18:40には、京都を出発、柘植で再び「かすが」を連結して、名古屋まで戻り、名古屋には21:27に帰ってくる運用でした。

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当時の編成がちょっと判らないのですが、時刻表で見る限りは、平安にも一等車【グリーン車】が連結されているように見えます。
昭和43年10月改正で一往復減
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昭和42年10月時刻表から(平安の桑名折り返しがあるので二往復ある)
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昭和42年10月時刻表 桑名発の平安2号の表示が見える

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昭和43年10月改正で、平安は桑名折り返しが廃止され、1往復となる。同時に「かすが」も、湊町~奈良間が廃止され、名古屋発の「しらはま1号」が運転開始、京都発の「しらはま」と併結して白浜まで走ることに

その他、補足事項
昭和41年の改正では、100km以上の準急列車が急行に格上げされることとなり、急行「平安」となります。
昭和43年10月の改正では、「桑名行き」が廃止となり、「平安」は一往復となり、名古屋始発8:05 「平安・かすが1号・しらはま1号」の3両編成で運転、奈良から、京都発の「しらはま1号」を併結して、和歌山線を下っていく列車となりました。平安は10:42、京都到着後は、18:55まで優等列車の運用はありません。

福知山線を走る優等列車たち
昭和45年 の時刻表を参照しますと、福知山線はもちろん非電化単線なのですが、以外と優等列車が多いことに驚かされます。
8:01 大阪を出発する、京都発博多行きまつかぜ、京都7:25→博多 20:50着、のロングラン
流石に全区間乗り通すのは余程の物好きか鉄道ファンくらいだと思います、実際、同区間は、かもめであれば17:17に博多に到着しますし、新大阪10:35発の「はと1号」であれば19:01に博多に到着、11:37大阪発の「つばめ」でも、20:00に博多に到着できるわけですから。
もっとも現在は新幹線で2時間半ほどですからそう考えると、新幹線威力はやはり凄いです。
さて、本題の山陰線・福知山線のダイヤを再び見てみようと思います。
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大阪は20:30~23:30までは、夜行列が6本?
さて、本題の山陰線・福知山線のダイヤを再び見てみようと思います。
季節列車とは言え、数多くの臨時列車が設定されています。だいせん4号のような季節臨もあります。
今では、寝台列車はおろか、夜行列車も無くなってしまいましたが、この時は座席夜行が多いとはいえ、6本もの夜行列車が走っているのは特筆に値します。
20:24 大阪発→8:31 浜田着 だいせん71号 客車列車
21:06 大阪発→4:40 米子着 だいせん52号 気動車列車
21:25 大阪発→7:20 大社着 だいせん3号 客車列車(定期列車)
22:05 大阪発→6:15 米子着 だいせん52号 客車列車
22:50 大阪発→8:45 大社着 だいせん4号 客車列車
23:30 大阪発→6:58 米子着 だいせん54号 気動車列車
だいせん3号以外は全て臨時列車となります。
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普通列車と互角?優等列車
福知山線の普通列車が20本(大阪駅基準、篠山口までの区間列車を含む)に対して、優等列車は16本あります。
内訳は、特急2本、急行14本ですので、かなりの本数です。
さらに、福知山線からの長距離鈍行と呼ばれる列車は意外と少なく、3本だけです。
5:37 大阪発→19:30 出雲市
10:08 大阪発→20:43 米子
11:48 大阪発→20:34 鳥取
となっていますが、これらの長距離鈍行は、荷物並びに郵便輸送の使命を持っていますので、荷物輸送が廃止されると、運用の合理化と相まって減少していきましたね。

現在は、電車化されて、篠山口までは通勤区間になりつつありますが、優等列車の「こうのとり」が四両編成とかみると寂しい気分にさせられますよね。
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この画像のみwikipedikaから引用

本日は、昭和42年2月の時刻表から適当に開いたページを開いて、思うところを書かせていただこうと思います。
今回は高崎線をアップしてみました。
昭和42年の高崎線はどのような状況であったのでしょうか。
早速、時間ごとに見ていきたいと思います。
高崎線は大宮までは東北本線と共用していたこともあるのですが、それでも朝7時前後から優等列車が上野駅を出発していく様は圧巻です。
長野方面の急行第1志賀 6:57 その15分後の7:12には、急行第1佐渡更に11分後の7:23には、急行草津1号と出発していきます。
特に佐渡はビュフェも連結された豪華急行であり、現在の車販も食堂車も無い特急と比べればなんとも豪華な編成でした。
さらに、17分後の7:40には現在は四季島が出発する地平ホーム(四季島は13.5番ホームですが)から特急はくたかが出発します。「特急はくたか」は、以前は、大阪~上野を結んでいた白鳥の運転区間を短縮(上野~金沢間)にした列車で、当然のことながら当時の特急列車ですので全車指定・食堂車付でした、晩年の「はくたか」は上越線経由でしたが、白鳥時代と同じで、信越線を通るルーととなっています。
さらに、25分後の8:05には、181系による「特急第1とき」が高架の6番ホームから出発していきます。
更に25分後の8:30には急行第1妙高が直江津方面に向けて出発、更に30分後には9:03 第2佐渡が出発し、ここまで特急・急行を併せて新潟まで直通する列車は1時間ごとに出発していることになります。
その後も、7分後の9:10には急行奥利根2号、更に20分後の9:30には、特急第1あさまが出発となんとも豪華です。

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10時台に入ると優等列車の方が多くて普通列車を探す方が困難なほど優等列車が発車していきます。
さらっと眺めただけでもほぼ10分おきに・・・当時は現在のようにデジカメも無かったので、記録する撮り鉄も少なかったのですが、これだけの優等列車がこれほどひっきりなしに出発していたら壮観でしょうね。
さて、早速見ていきますと。
10:00 急行白山、10:10 急行鳥海、10:20奥利根3号、あかぎ1号、草津いでゆ等々・・・
ローカル列車が1時間に1本程度なのに対して優等列車の多いこと・・・。
高崎線だけで、これだけの通行量であり、これに大宮までの東北線の優等列車を加えるとこの頃でもかなり窮屈なダイヤだったのでは無いでしょうか。

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さらに、進めて18:00代になるとそろそろ夜行列車が動き出します。
19:30発の急行越前(信越線経由福井行き)を筆頭に、急行黒部(信越線経由金沢行き)、急行羽黒(上越線経由秋田行き)、急行北陸(上越線経由金沢行き)、急行越路 新潟行き、急行天の川(寝台専用列車、上越線経由)の他、新設線経由の急行丸池、や座席オンリーの越路(再掲)や急行「とがくし」高原2号など、安く移動するための手段も用意されていたと言うべきでしょう。
改めてじっくりと見ていただくと、私の見落としている部分などで面白いものが見つかるかもしれません。
どうかお楽しみくださいませ。


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現在のJRでは、列車種別は、特急・快速・普通(快速も普通電車ですが)となっています。
嘗ての国鉄時代には、特急・急行・普通(快速を含む)と3種類の列車がありました。

更に遡って、昭和30年代の時刻表などを参照しますと、特急・急行・準急・普通という4つの種別があります。
戦前は、準急は実質快速列車のようなもので準急行料金は不要でしたが、戦後国鉄発足後は準急料金も必要になりました。

国鉄はご存じのとおり昭和39年(1964)から赤字決算になったのはご存じのことと思いますが、増収の思惑もあって、昭和41年3月の運賃改定時に、100km以上走行する準急列車は急行に格上げすることとしたのです。

元々、準急という列車種別が設けられていました。
当時の特急は文字通り特別な急行列車であり、庶民が簡単の乗れる・・・そんな代物ではなかったのです。
自ずと急行列車が庶民の特急で有ったわけです。
ただ、戦後の荒廃で車両の整備もままならず、ローカル線の列車等では古い客車を使わざるを得ず、そんな列車に急行料金を取るのも憚られることから、準急行として走らせていたという経緯もあります。
実際には、関西線の「準急かすが」のように普通列車でも評判の悪かったキハ17系をわざわざ当時の準急色に塗り替えて、キロハ18と呼ばれる半室2等車(グリーン車)を連結させていたというとんでもない列車等がありました。

急行列車の急行料金というのはそうした意味では、設備料金という位置づけだったのです。

実際には、準急東海のように153系電車が投入され、客車急行よりも早く快適な列車もあったりしました。
実際には客車列車や急行電車にはリクライニングシートの2等車(グリーン車)や食堂車(ビュフェ含む)といった供食設備も充実しており昨今の在来線特急よりもサービスは良かった部分もありました。

しかし、その御車両の増備が続いたことで、気動車でしたらキハ28・58による急行列車の他間合い運用で準急列車等にも入るようになると、いよいよ準急=安かろう・悪かろう では無くなってきたことや、増収の思惑から、100km以上走行する準急列車は一斉に急行になったのです。
一部の列車では100km未満でも併結列車が急行の場合は急行を名乗ることになりました。
昭和41年10月の改正で、名古屋~北濃間で運転を開始した「急行おくみの」は全線70kmほどですが、急行たかやまと併結のため、急行扱いになっていました。
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昭和41年10月の時刻表から引用

下図の時刻表を見ていただくと、同じ列車名でありながら昭和40年10月の時刻表では準急に、翌年の昭和41年10月時刻表では急行列車になっています。
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昭和40年まで準急であった、みささ、かいけ、砂丘等は準急になっています。
初乗り運賃が10円から20円に上がり、かつ準急時代はどこまで乗っても100円だったのが、距離に応じて100円~500円の間となり、「みささ」で大阪から鳥取まで乗車すると、今まで100円であった列車券が300円と急行料金だけで3倍になった計算になります。

参考までに、昭和40年の準急並びに急行料金と昭和41年の準急並びに急行料金をご覧ください


昭和40年の運賃表、300kmでと300km以上という分け方となっています。
長距離になるほど割安と言えます。
なお、1等(現・グリーン車)の端数は通行税が1割かかるためです。
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昭和41年10月時刻表
100km~1000km以上までの地帯区分が細分化し200kmまでは同額ですが401km以上はかなり大きな値上げになりました。

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なお、現在は定期列車として残っていた、急行「銀河」や、「きたぐに」が廃止されたことに伴い、定期列車の急行列車は走っていませんが、JR東日本・東海で下記のような列車が走っているようです。

JR東海 急行「飯田線80周年秘境駅号」 373系使用
JR東日本 急行 「ぶらり横浜・鎌倉号」 651系使用

だそうです。
ご教示いただきましたので追記させていただきました。
ありがとうございます。

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