加藤好啓 国鉄夜話

国鉄時代の写真並びに時刻表などを中心にアップさせていただきます。 国鉄に関する資料等も順次アップさせていただきます。 取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に blackcat.kat@gmail.comにメール またはメッセージ、コメントにて お待ちしております。

カテゴリ: 鉄道歴史

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デスティネーションキャンペーンと言う言葉を良く聞くと思います。
JRグループ旅客6社と指定された自治体、地元の観光事業者等が共同で実施する大型観光キャンペーン
ですが、その映えある?第1回目は和歌山でした。
「いい日旅立ち」のキャンペーンソングの中で「特急くろしお」&「寝台特急紀伊」 が中心に出てきますね。
紀勢本線の電化と連動させて11月から開始されたキャンペーンで和歌山県も全面的に協力したキャンペーンで、「いい日旅立ち」は山口百恵を代表する曲になるとともに、世代を通じて愛唱される歌謡曲となったと言えましょう。



さて、そんな最初のキャンペーンに輝いた紀勢本線ですが、昭和53年当時は高速道路の延伸も無く、白浜・勝浦の紀南方面は鉄道輸送がほぼ独占状態であり、また両方とも近畿の奥座敷の観光地として賑わっていました。
ただ、当時から白浜以南の人口が希薄なこともあり、紀勢本線の電化は和歌山~新宮間となったものの、旅客輸送の需要が多い和歌山~白浜間約100㎞については積極的な取り組みがなされた反面、白浜以東は電化のみと成りました。
白浜までは旅客入り込みが望めるので複線電化等の線路改良も併せて行われました。
それにより、一部区間は線路付け替えが行われ、南部付近など、海岸線を走っていた区間の一部がトンネルで覆われてしまうようになりました。
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いただき物の画像から 天王寺駅にて

また、この電化により国鉄は381系100番台電車を新製投入するとともに、普通電車も113系2000番台が(一部新製配置)されました。
昭和51年には、乗務員訓練習熟用として、381系1編成が7両が先行導入されています。
なお、電化工事は6月頃には完成し、7月からは訓練運転を兼ねて一部の列車は電車に置換えられ手10月を迎えています。
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最近急速に223系と225系が増殖?している阪和線ですが。
今から40年ほど前には、阪和線には京阪神緩行の中古電車が集結していた時期がありました。
元々阪和線は、阪和鉄道と言う私鉄でしたが山側を走っていたため業績は低迷、最後は社長の自殺と言う形で幕を引き、南海電鉄山手線となったものもつかの間、戦争激化により軍部の要請で南海電鉄山手線は国鉄阪和線となりました。
そんな経緯もあって、阪和線は外様大名のようなものだから国鉄としては冷遇しているのだろうという意見がまことしやかにあったのですが、実は阪和線の車両は非常に優秀な車両であったため、阪和線では重宝されていました。
モタ300形・モヨ100形に代表されるこれら車両は国鉄編入後は、機器類を国鉄形に変更したのです。
実際にブレーキ装置などは阪和電鉄時代の方が優れていたので、国鉄形になってグレードダウンしたと言われたものでした。

更に、昭和30年代には、南海電鉄の11001系(昇圧後は1001系)に対抗するため、阪和線には70系電車が新製配置されており、全金属車の300番台は横須賀線以外では阪和線が唯一でした。
この70系電車は、昭和50年の旧型車一掃まで阪和線を走り続けました。

さらに、昭和40年頃には103系も新製配置される等決して阪和線は国鉄本社から冷遇されていたわけではないのです、しかし、阪和線に旧形電車がどうして集中してしまったかと言うと、それは阪和社型の一斉廃車が有ったのが一つの原因でした。
 丁度京浜東北線などで余剰となりつつあった73形などが大挙して押し寄せて阪和線に集まってしまったのです。
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最終日の阪和社形の運行 天王寺駅にて 天鉄局30年史アルバムから
 
当時は、首都圏に集中して新車を入れてその玉突きで旧型車を地方に転出させる手法が取られていましたからこれは阪和線だけが割を食ったということにはならないと言えそうです。

ただ、この頃は南海電鉄は和歌山と大阪間での輸送で圧倒的有利に立っており、新性能電車7001系やその改良型である7101 系を増備していたこともあり阪和線としてもただ指をくわえてみているだけの状態であったことも事実でした。
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南海本線が通る線路沿いは旧市街地に沿って走っているため、町が発展しているのに対し、阪和線は山間部を通っているため、鳳から向こうは殆ど玉ねぎ畑と言った風情で、実際東岸和田駅などでは玉ねぎ輸送のための側線が有りました。
実際、阪和線に夜乗ってみると、和泉府中を過ぎれば何も周りになくて闇の中を走るという表現がぴったりな感じでした。
あまりにも前置きが長くなりましたが 、そろそろ表題の快速表示板のお話をさせていただこうと思います。
当時の阪和線の列車種別は、特急・急行・快速・区間快速・普通で、特急と急行は紀勢本線直通の列車ですので、実際の阪和線のみの運転は、
快速・区間快速・普通となります。
そして、快速電車のうち、旧形国電で走る電車にはその行き先を表示させるのに、下記のような表示板を掲出していました。
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和歌山が、和可山と当て字なのはご愛敬ですが、この標識を電車の前に吊るして走っていました。

快速が、赤色表示で、区間快速は緑色となっていました。

快速の停車駅は、当時は堺市・鳳・和泉府中・泉砂砂川・紀伊中之島であり、区間快速は、堺市・鳳、鳳以南は各駅停車でした。
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余談ですが、区間快速は「直行」昭和43年頃まで直行と言う表示を使っていたようです。
阪和線直行表示板
イラストは、当時の写真を基に再現したイメージです。

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今回は、昭和38年の時刻表から常磐線をアップしたいと思います。
画像はいただきものですが、デビュー当時の「はつかり」の貴重な写真です。
キハ81は、その設計に際して地元の要望から高運転台のボンネットタイプとなったそうですが、当時はまだだブレット交換の区間もあったので、運転台の高さは電車よりもかなり低く設定されたこともあり、151系と比べると鈍重なイメージは免れません。

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交通博物館に保存されている161系 こうして比較するとキハ81の運転台が低いことが理解できます。

早速、常磐線の昭和38年の時刻表から見て行きましょう。
電車「準急ときわ1号」の表記が見えます。
これは新製されたばかりの451系が使用されていたようです、ただし準急列車なのでビュッフェも1等車の連結も見送られているようですね。
「準急ときわ」自体は、昭和33年の時刻改正からキハ55によるディーゼル急行として走っているようです。

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次ページをめくってみましょう、上野~水戸間は「全車指定席」の「準急ひたち」、更にその20分後には、ある機関助士でも出てくる、「急行みちのく」が出てきます。
当時はこうした、列車種別の異なる列車がほぼ同じ時間帯で走るということが多々ありました。
これは、旺盛なる輸送需要に応えたことと、特に上野~水戸間では長距離輸送は「急行みちのく」に任せて「平」までの中距離区間は準急に任せることで座席の確保を図っていたと思われます。

実際、「急行みちのく」は9:50上野発、青森到着が23:23ですから約14時間かけて走っていたわけですが、当時の編成を見ると、荷物車を含む13両の堂々たる編成で、荷物車1両、1等車2両(うち1両は自由席)+食堂車+2等車となっています。
最後尾の12号車は、上野~仙台間、9~11号車は上野~盛岡間で切り離される運用となっていたようです。
現在は、青森まで新幹線で3時間、隔世の感を禁じ得ません。

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こうしてみると急行列車の停車駅も少ないですよね。

更に時間旅行を進めましょう、夕方になると16:30には早々と「急行北上」が上野駅を出発します、青森到着は翌朝5:47、寝台列車の表記が見えます。同じく19:50には「急行北斗」が上野駅を出発します、その間に18:10 「急行十和田」、21:00には「第2十和田」(こちらは臨時列車のようです。)が運転されています。
さて、「北上」と「北斗」特に「北斗」は北海道でも列車名で使われていましたが、ずばりこの2列車は、北海道連絡の使命を持っており、「北上」は6:20青森発の13便に、「北斗」は9:50青森発の17便と接続していました。
逆に十和田に接続する便は無く、「十和田」が青森県内までの利用、「北上」「北斗」難い北海道連絡の使命を持っていたことが当時の時刻表からも見ることが出来ます。
「北上(ほくじょう)」とも読めますよね。笑


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最終ページを見ますと、東北・北海道観光団体列車なるものの表記が見えます。
こちらも、南紀観光団体列車と同様言わばお仕着せの団体旅行列車で、ナハネ11及び旧形客車を改造したオハネ17(いずれもその後冷房改造で、オハネ12、スハネ16に改番)が使用され、車体すそ部にクリーム色の細線が入った専用編成が使われたといいます。

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