加藤好啓 国鉄夜話

国鉄時代の写真並びに時刻表などを中心にアップさせていただきます。 国鉄に関する資料等も順次アップさせていただきます。 取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に blackcat.kat@gmail.comにメール またはメッセージ、コメントにて お待ちしております。

カテゴリ:鉄道 > 時刻表

福知山線を走る優等列車たち
昭和45年 の時刻表を参照しますと、福知山線はもちろん非電化単線なのですが、以外と優等列車が多いことに驚かされます。
8:01 大阪を出発する、京都発博多行きまつかぜ、京都7:25→博多 20:50着、のロングラン
流石に全区間乗り通すのは余程の物好きか鉄道ファンくらいだと思います、実際、同区間は、かもめであれば17:17に博多に到着しますし、新大阪10:35発の「はと1号」であれば19:01に博多に到着、11:37大阪発の「つばめ」でも、20:00に博多に到着できるわけですから。
もっとも現在は新幹線で2時間半ほどですからそう考えると、新幹線威力はやはり凄いです。
さて、本題の山陰線・福知山線のダイヤを再び見てみようと思います。
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大阪は20:30~23:30までは、夜行列が6本?
さて、本題の山陰線・福知山線のダイヤを再び見てみようと思います。
季節列車とは言え、数多くの臨時列車が設定されています。だいせん4号のような季節臨もあります。
今では、寝台列車はおろか、夜行列車も無くなってしまいましたが、この時は座席夜行が多いとはいえ、6本もの夜行列車が走っているのは特筆に値します。
20:24 大阪発→8:31 浜田着 だいせん71号 客車列車
21:06 大阪発→4:40 米子着 だいせん52号 気動車列車
21:25 大阪発→7:20 大社着 だいせん3号 客車列車(定期列車)
22:05 大阪発→6:15 米子着 だいせん52号 客車列車
22:50 大阪発→8:45 大社着 だいせん4号 客車列車
23:30 大阪発→6:58 米子着 だいせん54号 気動車列車
だいせん3号以外は全て臨時列車となります。
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普通列車と互角?優等列車
福知山線の普通列車が20本(大阪駅基準、篠山口までの区間列車を含む)に対して、優等列車は16本あります。
内訳は、特急2本、急行14本ですので、かなりの本数です。
さらに、福知山線からの長距離鈍行と呼ばれる列車は意外と少なく、3本だけです。
5:37 大阪発→19:30 出雲市
10:08 大阪発→20:43 米子
11:48 大阪発→20:34 鳥取
となっていますが、これらの長距離鈍行は、荷物並びに郵便輸送の使命を持っていますので、荷物輸送が廃止されると、運用の合理化と相まって減少していきましたね。

現在は、電車化されて、篠山口までは通勤区間になりつつありますが、優等列車の「こうのとり」が四両編成とかみると寂しい気分にさせられますよね。
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この画像のみwikipedikaから引用

本日は、昭和42年2月の時刻表から適当に開いたページを開いて、思うところを書かせていただこうと思います。
今回は高崎線をアップしてみました。
昭和42年の高崎線はどのような状況であったのでしょうか。
早速、時間ごとに見ていきたいと思います。
高崎線は大宮までは東北本線と共用していたこともあるのですが、それでも朝7時前後から優等列車が上野駅を出発していく様は圧巻です。
長野方面の急行第1志賀 6:57 その15分後の7:12には、急行第1佐渡更に11分後の7:23には、急行草津1号と出発していきます。
特に佐渡はビュフェも連結された豪華急行であり、現在の車販も食堂車も無い特急と比べればなんとも豪華な編成でした。
さらに、17分後の7:40には現在は四季島が出発する地平ホーム(四季島は13.5番ホームですが)から特急はくたかが出発します。「特急はくたか」は、以前は、大阪~上野を結んでいた白鳥の運転区間を短縮(上野~金沢間)にした列車で、当然のことながら当時の特急列車ですので全車指定・食堂車付でした、晩年の「はくたか」は上越線経由でしたが、白鳥時代と同じで、信越線を通るルーととなっています。
さらに、25分後の8:05には、181系による「特急第1とき」が高架の6番ホームから出発していきます。
更に25分後の8:30には急行第1妙高が直江津方面に向けて出発、更に30分後には9:03 第2佐渡が出発し、ここまで特急・急行を併せて新潟まで直通する列車は1時間ごとに出発していることになります。
その後も、7分後の9:10には急行奥利根2号、更に20分後の9:30には、特急第1あさまが出発となんとも豪華です。

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10時台に入ると優等列車の方が多くて普通列車を探す方が困難なほど優等列車が発車していきます。
さらっと眺めただけでもほぼ10分おきに・・・当時は現在のようにデジカメも無かったので、記録する撮り鉄も少なかったのですが、これだけの優等列車がこれほどひっきりなしに出発していたら壮観でしょうね。
さて、早速見ていきますと。
10:00 急行白山、10:10 急行鳥海、10:20奥利根3号、あかぎ1号、草津いでゆ等々・・・
ローカル列車が1時間に1本程度なのに対して優等列車の多いこと・・・。
高崎線だけで、これだけの通行量であり、これに大宮までの東北線の優等列車を加えるとこの頃でもかなり窮屈なダイヤだったのでは無いでしょうか。

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さらに、進めて18:00代になるとそろそろ夜行列車が動き出します。
19:30発の急行越前(信越線経由福井行き)を筆頭に、急行黒部(信越線経由金沢行き)、急行羽黒(上越線経由秋田行き)、急行北陸(上越線経由金沢行き)、急行越路 新潟行き、急行天の川(寝台専用列車、上越線経由)の他、新設線経由の急行丸池、や座席オンリーの越路(再掲)や急行「とがくし」高原2号など、安く移動するための手段も用意されていたと言うべきでしょう。
改めてじっくりと見ていただくと、私の見落としている部分などで面白いものが見つかるかもしれません。
どうかお楽しみくださいませ。


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修学旅行用電車と言う専用電車が有った頃

修学旅行用電車(気動車)というものがかって存在すると言うと奇異に感じられる人も多いのではないでしょうか。
昭和を遡ること50年以上前、昭和34年、国鉄で「修学旅行専用電車」が製作されました。
この電車は、前年に登場した153系をベースに修学旅行向けにカスタマイズされた専用電車で、製造も国鉄の予算ではなく利用債というものを発行してそれを引き受けてもらうという方式で製作されました。
京阪神地区並びに東京の中学校PTAなどが利用債を引き受ける形で国鉄が車両を製造したと聞いています。

国鉄が利用債(特別鉄道債券)が発行され償還期間は10年でした、償還期間終了後はの昭和46年以降は新幹線の利用が一般的になってきたこともあり、修学旅行用電車の運用は終了しました。
それ以後は、湘南色になって153系と混用されて、主に臨時列車用として使われるようになったそうです。

修学旅行電車が出来る前は引率の先生は大変
さて、修学旅行電車が出来るまでは引率の先生は大変でした、というのも当時は寄せ集めの客車などが使われるのが一般的でした、更に若い人には想像もつかないかもしれませんが、ドアはいつでも自由に開閉と言うか、ドア自体開放されたままですので、途中駅で降りて行方不明になった・・・なんてこともあったとか無かったとか・・・どちらにしても先生としても目が離せないという点で大変であったと言われています。
一時期、80系電車で運転したところ、途中駅でもドアを開けなければ勝手に降りることはないので先生の負担が軽減したことも、修学旅行電車を作る気運になったと言われています。

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修学旅行電車を作ろう
修学旅行電車は、国鉄への要望と言うことと、利用債を東京都及び京阪神修学旅行委員会等が引き受けることで話がまとまり、国鉄は車両を製造することとなりました。
ただ、155系は修学旅行用と言うことで特化した部分と、引き受け金額を少しでも抑えるために153系と異なる点がいくつかりました。
外観上で異なる点は、
  • 前面のスカートを省略した
  • 台車を空気ばねから101系などと同じ電動車はDT21A・付随車はディスクブレーキ装備のTR62
  • 車体屋根の高さが全体に低くなり中央線の狭小トンネルでも乗り入れれ出来るようになった。
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それ以外にも修学旅行電車として、独特の装備も設けられていました。
  • ドアの幅が70㎝と特急列車並みとなった。
  • シートの配置が在来線では初めて、2+3の座席配置として、座席の上に網棚が来る構造とした。
  • シートの上に蛍光灯が来る構造とした。
  • シーとの間にテーブルが置ける構造になっていた。
  • 調光式を採用し、夜間は照明の照度を下げて安眠しやすくした。
  • 修学旅行生向けに大型の洗面台、男子用小便器、他にも飲料水タンクを2個設置し、水筒に水を補給できるようになっていました。
  • 運転室の助士席側にはテープレコーダを設置して放送で流せるような仕組みも配慮されていたそうです。
  • さらに、先頭車の一部の座席では簡易ベッドに出来るようになっており、体調不良等の場合は休養できるようになっていました。
さらに、先頭車だけですが、速度計の電力に余裕があったことから二つに回路を分岐して運転台用並びに、客室にもスピードメータを付けていたそうで、これは原設計にはなく、メーカーの発案で取り付けられたそうで、修学旅行を一生の思い出にという親心と言ったところでしょう。

修学旅行電車は新幹線へ
修学旅行電車は、10年の償還期間が終わる以前から、利用債を引き受けていない私立学校などでは新幹線を利用していました、そこで利用債の終了を機に昭和6年以降からは新幹線での利用が一般的となり現在に至っています。

余談ですが、私が中学校の修学旅行で関東方面に行った際は、行きは新幹線、帰りはストライキの影響で新幹線も動かず、結局観光バスで熱海から和歌山まで帰ってくると言うとんでもない事態になりました。
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昭和31年7月号時刻表の東海道本線の時刻表から
当時は、特急「つばめ」「はと」は客車列車の時代であり、東海道線全線電化により青大将塗装になったEF58が東海道を上下することになりました。

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