加藤好啓 国鉄夜話

国鉄時代の写真並びに時刻表などを中心にアップさせていただきます。 国鉄に関する資料等も順次アップさせていただきます。 取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に blackcat.kat@gmail.comにメール またはメッセージ、コメントにて お待ちしております。

カテゴリ:鉄道 > 時刻表

はつかり号は、常磐線?東北本線?
はつかり号と言う言葉を聞いて、青森行きの特急であったという答えはすぐ返ってくるのですが
さて、東北本線経由それと常磐線ですかと質問されるとどうでしょう?

実は、私も「はつかり」と聞くと東北本線のイメージが強くて、常磐線の特急は、「みちのく」では?と言う方も多いのでは?

実際には、非電化時代は、「はつかり」は常磐線経由でしたが、これは東北線よりも勾配区間が少なく、時間的に有利であったため、「はつかり」は常磐線経由になっていたそうです。
はつかり号は、キハ81時代は常磐線経由だった
はつかり号は、キハ81形を先頭とするボンネット車で誕生、上野~青森間を10時間43分で結んでおり、上野を13:15に出発、青森へは23:58に到着、00:20 青森発の11便と接続、4:50 函館着で、5:10急行石狩【札幌行・千歳線・室蘭線経由】、5:30急行大雪【旭川行き・函館本線経由】と接続していました。
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時刻は、昭和35年3月の時刻表を参照

ヨンサントウで特急はつかりは2往復に増発の上電車化、東北本線経由に

昭和43年10月改正で、はつかりは晴れて電車化、東北線の代表特急へ成長します、その後は東北新幹線が、盛岡まで開業するまでの間、東北路の顔として活躍していました。
昭和43年10月改正の時刻は下記の通り
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ちなみに、特急「みちのく」が運転を開始するのは、昭和47年3月の改正で臨時特急として運転を開始しています。

583系はつかりが常磐線を走った?

実は、「はつかり」号ですが、東北本線で走り出す前に約1ヶ月間常磐線を走行していました。
にわかに信じがたいかと思うのですが、鉄道ファン、通算90号 昭和43年12月号のニュース欄に、常磐線に9月から一足先に常磐線の「はつかり」電車に置き換えられたという記事が書かれています。
当時の鉄道ファンの記事
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解説では、三河島付近を走る「はつかり」と書かれています。


まぁ、正式開業前に置き換えて運転士の習熟を図ることは良くある話ですが、運転区間が常磐線→東北本線に変わるのに、常磐線で、気動車ダイヤのままで、583系に置き換えたというのは正直驚きです。
昭和43年9月時刻表はこちら
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時刻表一つ取っても色々調べて見ると面白いことが見つかりそうです。


ヨンサントウの時刻表から
ひょんな事から、昭和43年3月のjtb版時刻表【当時版】が手に入ったので、この時刻表を参照しながらお話をさせていただこうと思います。

ということで、今回は中央線の時刻表を見ていただこうと思います。
昭和43年10月の改正、中央道など高速道路は開通して居らず、山梨方面への利用はもっぱら鉄道であり、夜行列車も多数運転されていたようです。
臨時の夜行列車が多いのが特徴と言えましょうか。
中央アルプス登山の利用者向けの列車が多いことが目につきます。

臨時列車ではありますが、岡谷行き、甲府行きと、00:20~00:50迄の30分間に、3本の列車が運転されています。
連続して3つの列車が運転されています。
特に八ヶ岳高原号は、小淵沢から野辺山に直通する列車で7:31に野辺山到着となっていますが、定期列車併結では無く蒸気機関車牽引だったのでしょうか。
23.4kmの距離を一時間半程かかっています。
同じ時間帯で運転sれる気動車列車は、出発が6:24と遅いにも関わらず、7:13には野辺山に到着しており、30分も運転時間に差が出ています。

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新宿と言えば「アルプス広場」が現在もあるようですが、登山客のメッカというイメージがありました。現在は、バスターミナルが駅前に出来て、夜行列車からすっかり、夜行バスにそのお株を奪われてしまった感がありますが、昭和43年当時の時刻表を見ますと、アルプスという愛称の急行が多数走っています。
165系が投入されていましたが、中央線の狭小トンネルを通過するため、パンタグレ不文を低屋根にした800番台が増備され【その後、PS23形パンタグラフが開発され低屋根化は必要なくなりました.】ていました。
非冷房時代は、扇風機に代えて10系客車などで見ることが出来たラインデリアが装備されていたように記憶しています。
また、個々で注目したいのは、8:10発の急行「甲州ぶどう号」でしょうか。
この列車には、「ワ」の文字が見えますが、これは、ワッペン列車と呼ばれるもので、当該列車に乗車する前にワッペンを購入すると座席が確保されるというものでした。【指定席では無く、個々の席は自由に選べる、乗車整理券と呼ばれるものでした】

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そして、こうして見ると、当時は急行が幅を利かせているのがよく判るかと思います。
当時は、特急列車は特別な列車であり、急行列車が現在の特急列車の位置づけでした。
いわば、クルーズトレインより料金を安くして毎日運転するのが特急であり、急行は庶民が利用する特急、そんな時代だったのです。

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夜間時間帯になりますと、22:30~23:50迄の約一時間半の間にこれまた臨時列車が多数ありますが、集中して運転されているのが判ります。
当時のアルプス10号・11号は、大糸線の南小谷迄直通運転されていますが、今ではちょっと考えにくいのではないでしょうか。
それ以外では、23:55発に長野行きがありますが、長野着は10:16となっておりますが、甲府あたりノン分最終版を配送する輸送もになっていたかもしれないですね。
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日本万国博覧会は、約7割が鉄道を利用すると予測されていました。大阪市営地下鉄を延長して万博会場までの路線を建設することを計画しましたが、大阪市営地下鉄が吹田市まで延長することに批判も多く、最終的に阪急と大阪府、関西財界などが出資した第3セクター鉄道として開業することになりました。
この辺は、多くの本で既に書かれていますので、ご存じの方も多いかと思います。

今回は、1970年の時刻表を参考に、「エキスポこだまと新幹線」
というタイトルで書かせていただこうと思います。
新幹線初の夜行列車?
エキスポこだま・・・既に御存じの方も多いかと思いますが、上り列車だけ運転された夜行列車で、大阪~三島間に運転されていました。
実は、この列車3月の時刻表では設定されていませんでした。
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3月発行の時刻表【復刻版から】

恐らく、国鉄もこれ程利用者が増えると予測していなかった節があります。
急激に増えた観客輸送
当時の夜行列車は、広島発の安芸。姫路始発の銀河2号、大阪始発の銀河1号で大阪からの旅客を受けることとし、それ以外に銀河全車座席指定の銀河51号・52号、団体枠で銀河71号(団体枠で満員の可能性がありますと言う表記付】が運転されていましたが、7月前後から万博の輸送は急激に増え始めたそうで、国鉄としても看過することはできなくなりました。

早駆けの新幹線と門限破りの新幹線

そこで、新幹線の早朝運転と、深夜運転、さらには、「エキスポこだま」とい珍列車を設定しました。
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昭和45年6月22日改訂の時刻表

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昭和45年7月、蒸気時刻表の拡大

新幹線はその開業以来、上下線とも6:00始発を守っていました、これは現在も基本的には変わっていないのですが、6月22日のダイヤ改訂で、5:40発東京行き、ひかり332号が設定され、東京駅に8:50に到着する列車が(8月17日→8月21日)運転されるようになりました。さらに、少し左側をみますと、今回のお話の「急行エキスポこだま」なる列車が載っています・・・。

どんなダイヤだったのか?

三島駅を7:05に出発する列車で、東京駅には8:10に到着。
この列車の乗客であれば、比較的会社から近いところであれば万博を見て~出勤なんて事も可能だったかもしれないですね。


これは、前年に完成した三島駅の電留線を活用することで可能となりました。
元々、三島の電留線は、熱海駅までの需要があり、その列車を以前は静岡まで回送させていたのですが、76キロメートルも回送するのは経済的では無いため、三島に電留線を設けるとともに、駅を設置したことが始まりであり、熱海から16 kmしかないことは異例といえば異例でしたが、エキスポこだまは、この施設をうまく活用して、在来線の夜行列車が8:00~9:30の間長距離列車は到着できないという問題を軽々とクリアしたのでした。
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なお、この列車に関しては、新幹線の案内の中で下記のように記されていました。
大阪~三島間を在来線、三島~東京間を新幹線で結ぶ「エキスポこだま」が運転されます、【大阪発7月3日~9月13日まで運転、大阪発 22:58、東京着 8:10)この列車は特急・急行料金、指定席料金がそれぞれ特別割引になっています。
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当時の万博案内

他にも、新大阪始発の最終列車が、新大阪 21:10、東京に0:20に到着する、ひかり326号が設定されていました。 
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民族大移動と言われた、万国博覧会でしたが、今から振り返ると国鉄も魅力的な列車が多数運転されていたことが窺えます。

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 昭和45年3月改正の時刻表
昭和45年、平成生まれの人では昭和の年号などと言われても正直困惑する人も多いと思いますが、1970年と言えば何となく判っていただけるでしょうか。
EXPO'70と言う名称で、大阪府吹田市の千里丘丘陵で、3月15日から9月13日までの183日間開催されました。
1280px-Osaka_Expo'70_Kodak+Ricoh_Pavilion

Wikipediaを参照しますと、  
アジア初かつ日本で最初の国際博覧会(General category:一般博、現・登録博)であり、当時史上最大の規模を誇った。
と書かれています。

実際に、
総入場者数:64,218,770人(うち外国人 約170万人)
目標入場者数:3,000万人(その後5,000万人に上方修正)
参加国数:77か国4国際機関
ということで、その規模は大変なものであり、国鉄も旅客輸送に12系客車を増備したほか、新幹線を増発するなどの準備がなされました。
当時の記録などを参照しますと、万国博の入場者は、当初、出足は鈍かったそうですが、春先から来訪者が増えて、夏場には後述するように、エキスポこだまなる臨時列車を走らせることとなりました。
また、「ひかり号」は、全列車16両編成に統一されていました。

半年間だけ存在した駅が時刻表に・・・。
  昭和45年の時刻表を見ますと、阪急の千里線には北千里の手前に、万国博西口駅が、北大阪急行では万国博中央口駅の文字を見ることができます。
阪急千里線に万博西口が、そして、万博中央口の駅名
今は、中央口の駅があったであろう付近は完全に中国道の下になっていますので、廃線跡ですってアップしたら、廃線ファンに叱られますね。苦笑
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万博中央口と万博西口の名称が
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阪急の方には、万国博西口の表示が

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何故か、北大阪急行の表示がありません、2月24日開業なんですけどね。


そして、エキスポこだまは当初の臨時列車としては設定されていませんでした。
そして、改めて昭和45年3月の時刻表【復刻版ですけれど】取り寄せて分かったことは、3月の時点では、エキスポこだまは設定されていなかったと言うこと。
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エキスポこだまって何? 
エキスポこだまは、静岡、6:47発のこだまの五分前に設定され、大阪を22:58に出発し、三島に6:53に到着する夜行列車に接続して、三島を7:05に出発して東京駅に8:10に到着するダイヤでした。
この列車が、3月の時点では設定されていないことが確認できました。

なお、昭和45年7月号の時刻表を取り寄せて言いますので、その時刻表であれば掲載されていると思われますので、改めてアップさせていただきます。

ということで、「エキスポこだま」は次回に

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今回は、昭和33年10月改正に時刻表からになります。
全国版時刻表では無く、支社監修の時刻表と言うことで、九州地区の時刻は詳しいのですが、東北・北海道などが省略されています。苦笑
当時の西部支社というのが、九州全域と中国地方【広島・山口】を管轄していたので、時刻表を見ますと、概ね滋賀以西しか地図すら載っていません。笑img322
その中で、今回は、大阪から西に向かう時刻表に注目してみたいと思います。
それがこちら、
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右側に行くと丁度寝台列車が下ってくる時刻になるのですが、「特急平和」という名前が目に入ってきます。
まさか、ここでリアルに時刻表で見ることが出来るとは・・・。
この長崎行きの「平和」という列車、昭和33年10月のダイヤ改正で誕生するのですが、昭和34年の改正では、「さくら」に再び改称されてしまうため、非常に貴重なんです。

個々で、簡単に「へいわ」号のお話をおさらいしてみようと思います。

へいわ号は、感じの場合を含めて合計三回登場していますが、いずれも1年内外で廃止になっています。

最初のへいわ号は、
昭和24年9月のダイヤ改正で誕生しました。
しかし、この列車は当初から仮名ということで、公募により変更されることが最初からアナウンスされていました。
リリーフ特急と言えましょう。
その後、へいわ号は、「特急つばめ」に変更されます。
戦前は、「燕」と漢字で表現でしたが、戦後は「つばめ」とひらがなで表現されることとなりました。
個々で、一度へいわ号の、活躍は幕を閉じます。

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その後、昭和は、この時刻表にアップしました、昭和33年10月の改正で、東京~長崎を運転する列車として誕生します。
長崎の平和の鐘をイメージして、釣り鐘に平和の文字を組み合わせた比較的シンプルなものでした。
この列車も、実は短命で、昭和34年7月の改正で、「特急さくら」に愛称が変更されてしまいます。
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大阪からの、特急平和号の時刻です。

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九州島内、鹿児島本線のダイヤ

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嵯峨に停車すると、諫早までノンストップです。

列車本体を、「さくら号」に譲ることにより、再び、平和という名称の特急列車は引退してしまいます。

平和号が再び登場するのは、昭和36年10月の改正でした。
今度は東京からの列車ではなく。大阪始発広島行きの列車として、キハ82により誕生します。
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昭和

広島→大阪のビジネス利用を目的として居たようで、下り列車は18:00と比較的遅く、広島着も22:40と当時の列車としては、かなり遅い列車でした。調べて見ますと、広島は逆に7:30となっており、広島~大阪へのビジネス列車としての性格を持っていたことがうかがわれます。
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