blackcatこと鉄道ジャーナリスト 加藤好啓 国鉄夜話

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カテゴリ:鉄道 > 時刻表

1977年(昭和52年)3月25日に発表されたのが、歌謡曲が、狩人が歌う、「あずさ2号」でした。

兄弟デュオ・狩人のデビュー曲でしたが、列車の名前そのものが歌の題名になるというのも珍しいかったものです。
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本日は、特急あずさ2号が走っていた、中央本線(新宿~松本間)のお話をさせていただこうと思います。
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さて、ここで登場するあずさですが、デビュー当初は当然のことながら181系で運転されていました。
それまで、天井に取り付けられていたヘッドライトが撤去されてしまいました。
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画像 Wikipedia 181系オリジナル

これは中央東線の狭小トンネルを通過する際にヘッドライトが支障するということで撤去されたもので、その後の直流電車は183系もそうですが天井のヘッドライトは省略されることとなりました。
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画像 Wikipedia ヘッドライトが最初からない181系100番台

485系は181系よりも床面高さが10cm程度異なったので最初から中央東線などのトンネル狭小区間に入れませんのでヘッドライトの撤去は行われませんでした。

ただし、昭和50年に入ると181系は老朽化を理由に早々と189系に置き換えられてしまいました。

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見にくくて申し訳ないですが、グリーン車2両連結が189系長野区配置、グリーン車1両は幕張電車区配置の183系0番台

狩人のあずさ2号がヒットした頃の編成表を見てみますと、あずさ2号は、幕張電車区所属の183系(当時は共通運用)が使われていたそうで、189系編成がグリーン車2両連結していたのに対して、183系編成はグリーン車1両の寂しい編成でした。
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個人的には181系「あずさ」が一番絵になったと思うのですが・・・。

ただ、この歌がヒットしたことで実際に「あずさ2号」で旅をする女性が増えたと言う記録もあったりして当時はちょっとした社会現象になっていました。

さて、それはさておき当時の新宿駅を中心とした中央線の様子を更に見てみましょう。
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「あずさ」はほぼ1時間おきに出発し、同じく30分後に急行かいじ・アルプス等が出発するダイヤになっていました。
さらに、新宿発松本行きなどの長距離普通電車も走っていますし、当時は高速バスなどがありませんので22:30以降は急行アルプスが松本方面に向けて下って行くという時代でした。
いまだったらその役割はすっかり高速バスに取られていますが。

現在はサンダーバード、以前は日本海やトワイライトエクスプレスも湖西線を走っていますし、北陸から関西方面への貨物列車は湖西線を経由することが一般的になっていますが、距離は短い反面東海道沿線と比較すると人口の集積が少ないのと風の影響を受けやすいので時々サンダーバードは米原回りに変更される場合があったりしますが、湖西線が開業するまでは当然のことながら北陸本線へ直通する列車は米原経由でした。
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当然のことながら、北陸本線は米原がジャンクションになっているため、名古屋経由も大阪経由もここから北陸方向に進むため優等列車で非常ににぎわっています。img304

さて、湖西線は昭和49(1974)年7月に鉄建公団のC線(主要幹線)として建設されました。
当時の鉄建公団では、建設すべき線路の種類に応じて、地方開発線(A線)、地方幹線(B線)、主要幹線(C線)、大都市交通線(D線)、海峡連絡線(青函トンネル、E線)、整備新幹線(G線)、民鉄線(P線)の7つに区分していました。
特に、地方開発線(A線)、地方幹線(B線)(いわゆる、AB線)に関しては国鉄に無償貸付または譲渡と言う名の押し付けが行われ、それ以外の路線は30年程度の年賦で譲渡される形になっていました。

さて、そうした余談はこの程度にして,
開業当初のダイヤを早速見てみましょう。
昭和49(1974)年7月に開業する湖西線ですが、特急列車の運転は翌年の3月新幹線博多開業まで持ち越されることとなりました。
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と言う訳で、開業当時の湖西線は非常にシンプルなダイヤでしたが、全線高架線の高速運転も可能なスラブ軌道の鉄道は非常に新鮮でした。
反面、駅の作りなどが画一的でどの駅も同じような構造になってしまう・・・そんな時代でもありました。

なお、デッドセクションは近江塩津でしたので、直流電車は永原まで運転でした、近江塩津を越えて敦賀に行くには気動車による連絡とされており、キハ26等が投入されていました。
ただし、本数は1日3往復のみと言う寂しさでした。
 
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開業に備えて113系700番台が新製配置され、旧形もしくは首都圏のお古しか回ってこない阪和線ユーザーにしてみれば新車投入は羨ましかったですね。
今更蛇足な説明かと思いますが、113系700番台は113系に半自動ドア開閉の機能を付加して、耐寒耐雪装備(雪切室)等を設けた車両でした。
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また、車両の詳細は別のブログなどで紹介させていただきます。

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国鉄があった時代 JNR-era

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皆様こんにちは、別のブログで12系+20系連結のお話をさせていただいたのですがその記事に関連して、「急行かいもん」並びに「急行日南」の時刻表を見ていただきます。
いずれも昭和58年1月の時刻表をスキャンしたものです。
当時は荷物輸送の関係もあり、乗客の有無にかかわらずこうした荷物列車が運転されていました。

私も、JRになってからの昭和62年頃ですが、「急行・かいもん」に乗ったことがあります。
青春18きっぷで九州入り、小倉から出水まで乗車、そこから再び各駅停車で西鹿児島を目指した記憶があります。
その時には座席車もリクライニング車だったのでもしかしたら14系もしくは12系を改造したリクライニング車だったのかもしれませんし。寝台車も14系になっていたことと思われます。
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昭和53年頃の時刻表では、門司始発でしたが、この頃には、門司港始発となっています。
しかし、あの頭単式ホームに寝台列車と言うのは絵になったでしょうね。
昭和61年頃も20系が使われていたようです。

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なお、「急行かいもん」と「急行にちなん」がペアで運行されていたので、日南の時刻も貼らせてもらっておきますね。

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「急行日南」は、宮崎からは普通列車となるため、20系客車を使った豪華な普通列車が走っていたことになりますね。
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参考
キャプチャ

昭和60年11月の時刻表から作成しました。

新幹線博多開業後の夜行列車はどのように変化したのでしょうか。
東京始発の長距離急行高千穂・桜島が廃止になり、名古屋発着の阿蘇も廃止になりましたが、それ以外の東京発着のブルートレインの本数に影響はなく、関西発着の特急4往復減少した程度でさほど大きな変更はありませんでした。
「あかつき」が削減されて「明星」に統合された他、西鹿児島行き寝台特急として「なは」が新たに誕生しています。
寝台特急「なは」は鹿児島新幹線開業時は熊本までに短縮された運転になりましたが。
本題に入る前に少しだけこの列車の誕生経緯をお話しておきましょう。

特急「なは」・・・名前からわかるように、沖縄県那覇市の地名から命名されたもので、「なは」と平仮名で書かれるとピンときませんよね。
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「特急なは」

機会があれば詳細はまた別の機会に書かせていただきますが、沖縄がアメリカの施政権下に置かれていたころ、早期本土復帰の願いを込めて琉球新報が「本土に沖縄名の列車を走らせよう」というキャンペーンで公募したものが始まりで、これを受けて昭和43年10月のダイヤ改正で「特急かもめ」の鹿児島編成の愛称を「なは」に変更したのが始まりであり、その後も伝統は受け継がれて、博多開業後は消える運命にあった「昼行特急なは」は再び「寝台特急なは」として復活したわけです。

さて、前置きが長くなりましたが、当時の時刻表を見てみますと、「霧島」が消えて、「あかつき」が長崎方面の列車名に統一され、「彗星」は引続き大分方面の列車に使われることになります。
また、関西方面では2段寝台化が進みそうした意味ではサービスの向上は西日本から行われたと言えましょうか。
それでは、昭和49年12月の時刻と昭和50年3月の時刻表の比較をどうぞご覧くださいませ。キャプチャ1

当時の国鉄の時刻表風に、臨時列車は黄色にしております。
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列車の併合が多いので列車本数的には4往復減ですが実際にはさらに減った感はあります。
ただ、夜行バスが現在ほど発達していませんでしたので座席主体の夜行列車が多客期を中心に需要があると見越して客車による列車が設定されています。

昭和50年3月の列車ダイヤをどうかご覧くださいませ。
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皆様、おはようございます。
気が付くと1週間近くも空けてしまいました。
本日は、皆様を昭和50年3月の時刻表で時間旅行していただこうと思います。
昭和50年3月と言えば、皆さんもよくご存知のとおり山陽新幹線が博多まで開業した年です。
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そこで今回は、博多開業時の新幹線の時刻表を中心にお話をさせていただこうと思います。
昭和50年3月10日、山陽新幹線は岡山から博多間が開業し東京~博多は1本で繋がることとなりました。
東京~博多間は最速で6時間56分で結ばれることとなりました。
新幹線開業前であれば、東京~大阪とほぼ同じ距離を新幹線では博多まで行けることとなったわけです。
ただ、やはり7時間と言うのは時間としては短くないので、本格的な供食設備も必要であろうということで本格的な食堂車が開発され、これが36形食堂車と呼ばれる食堂車でした。
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0系36形食堂車

この食堂車、車体幅が在来線よりも広いことを活かして側通路方式として落ち着いて食事できるようにしたのですが、山側に通路を設けたため、富士山が見えないという問題が起こりました。
まぁ、食事しながら富士山と言うのもと思ったのですがそれなりの要望も多かったのでしょう、後に改造で食堂車内にも窓を設けることとなり、通路を隔てて山側の景色を見ることが出来るようになりました。

その後0系の後継として製作された100系では、ダブルデッカーとするとともに、通路並びに厨房を1階に設けることで山側の景色が見えないという問題と食堂車が通路代わりに使われるという問題を同時に解消しましたが、JR西日本はダブルデッカー4両連結の「グランドひかり」を製作しその存在感を見せつけました、特筆すべきは新幹線として弱め界磁を使って270km/h運転が出来るように準備されており実際に高速試験も行ったのですが、技術的には問題なかったようですが騒音問題がクリアできなかったようで、230km/h運転(0系は220km/h)が行われたにすぎませんでした。

その辺は、また別の機会にさせていただこうと思います。

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博多直通の「ひかり」は赤地に「ひかり」の通称あかひかりまたは「Wひかり」と呼ばれていました。
岡山以西が各駅停車になる「ひかり」は、青地に「ひかり」の通称あおひかりであり、大阪を境に輸送量が減るであろうということでこのような調整がなされていました。
まぁ、いまでも山陽新幹線の本数は、東海道新幹線と比べると少ないのですが、当時はもっと少なかったようですね。
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スキャナーから取り込んだものですので、多少の世見苦しさはご容赦願います。

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