blackcatこと鉄道ジャーナリスト 加藤好啓 国鉄夜話

国鉄時代の写真並びに時刻表などを中心にアップさせていただきます。 国鉄に関する資料等も順次アップさせていただきます。 取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に blackcat.kat@gmail.comにメール またはメッセージ、コメントにて お待ちしております。

カテゴリ:鉄道 > 時刻表

本日は昭和42(1967)年の2月号の時刻表から、函館本線 函館~長万部間をピックアップしてみたいと思います。
img276

当時は、北海道に渡るのは船で渡るのが一般的であり、旅客も貨物も青函連絡船を利用して運ばれていました。
そして、連絡船の発着に合わせて優等列車が次々と発車する様子を見ることが出来ます。
深夜00:01に青森を出港した一便は、朝9:30に上野を出発する、急行「第2みちのく」(ある機関助士に出てくる客車列車)と同じく13:15に上野を出発する特急「はつかり」を受けて出港する便で、早朝3:50に函館に到着するのでした。
そこで接続するのが、特急「おおぞら」80系の堂々12両編成でした。1~5両が函館~旭川、6~12の7両食堂車を含む編成で、函館~釧路まで運転していました。
各々編成には1等車【グリーン車】が連結されており、「おおとり」と共通運用になっていました。
img277

更に、その10分後には101便が到着しますが、9分後に出発しますが、到着は4:20と20分ほど遅偉大屋ですので、旧型のタイプが投入されていたのかもしれません。
なお、101便は救済便のような扱いであり、上記の2列車からの受入がメインのようです。
北海道側では、急行ライラック【札幌行きが受け持つようで、5:00に函館を出発するようであり、この列車を利用すれば、札幌には10:00丁度に到達できるようで、急行みちのくを経由してくると、24時間30分で札幌まで到達できることになります。すきゃなー^
現在では札幌まで飛行機が一般的なことを考えると隔世の感があります。
ちなみにカシオペアが運転されていた頃でも、上野16:20発→札幌11:15着と言うことを考えると、青函連絡船時代の。上野13:15発の上野発の「はつかり」+「おおぞら」の組合せで、札幌に8:40に到着することを考えると、客車列車と気動車の加速の違い等もあるかもしれませんが、20分しか早くなっていないというのは不可解な気がします。
さて、連絡船の方を改めてみますと、その後は青森発6:40、7:05と続行便が続き、6:40発の103便、7:05発の3便を受けて、特急「おおとり」、急行「宗谷」が出発していきます。
これらは、急行「八甲田」、特急「はくつる」を受けています。
特急はくつるは、九州特急では廃止になった座席車が2両連結されており、20系最後の座席特急としてゆうづる共々貴重な座席夜行となっていました。
なお、急行宗谷は、列車名が示すとおり稚内を目指す列車であり、終着稚内には23:08分と言うことで約12時間走る続けるのですが、最後まで乗車した人はどれくらいいたのでしょうか。
さらに、青森を9:40と午前中に出発する便は、上野を21:30に出る特急「ゆうづる」を受けており、安いスキャナーなので見えませんが、原本を見ますと、特急北斗、旭川行きが受けています。
連絡船は13:25着、13:45 函館発特急北斗、旭川行きとして千歳・室蘭本線経由で20:27に旭川に到着していたようです。
12:05に青森を出発する、207便は、急行「第1津軽」を受ける便で、急行「十和田」からの便も一応受けています。
第1津軽は秋田の人にしてみれば、出世列車と呼ばれるほどの超一流列車で、あけぼのが誕生するまでは、津軽で帰省することは、東京で成功したことを意味するとさえ言われていました。
俣、その辺は別の機会に書かせていただきます。
そして、この207便を受けて函館を出発るするのは、急行「第1すずらん」で、21:15に札幌に到着する列車であり、この辺までが日着圏の時間帯としては最も遅い時間帯と思われます。
まだ複数の列車がありますが、ありは省略とさせていただきます。
現在は、上野~札幌間は列車に乗ることが目的とした特殊な列車で無い限り、それだけの長距離の区間を列車に乗ってくれるのは鉄道ファン以外は居ないのでは無いでしょうか。


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr


東京~金沢と言えば現在は北陸新幹線を利用すれば、二時間半ほどで金沢まで到達できます、今回のお話は、今から半世紀以上前のお話です。
東京発金沢行きの寝台列車がありました。
その列車名は、「急行能登」
新幹線開業前には夜行列車は、3往復設定されており、1往復は信越線経由の越前(福井行き)もう1往復は上越線経由、急行北陸(金沢行)、そしてしんがりが、東海道・北陸本線経由、急行能登(金沢行)でした。
下記時刻表は、新幹線開業前の昭和36年7月の時刻表です。
img233
能登は単独運転ではなく、那智・伊勢ということで3階建ての急行列車として運転されています。
当時の線路容量が逼迫していたことも原因かもしれませんが、能登は東海道区間は、単独運転は無かったようです。銀河が神戸まで運転となっていますが、三ノ宮が開発されるのは昭和30年代後半からであり、この当時はまだまだ神戸駅が神戸市の中心部でした。

さて、次の時刻表は、新幹線開業後の昭和41年10月の時刻表です。
img234
こちらでは、伊勢・那智が単独列車となり、能登は大和と連結される形となっています。
大和は、和歌山市迄直通の寝台車が一両あり、普通列車に連結されて和歌山市まで下っていました。
なお、能登は一時期単独運転を行っていますが、新幹線開業後は、東海道本線を走る夜行列車は減少していくこととなり、昭和42年10月の時刻表では走っていますが、昭和44年の時刻表では走っていませんのでヨンサントウの改正で廃止されたものだと思われます。
能登が北陸線経由で残った背景には、東海道線の輸送力を確保する目的が有ったといえそうです。
img236
昭和42年10月時刻表から
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr




久々に更新させていただきます、今回は、寝台列車の「あさかぜ」のお話をさせていただこうと思います。

最初に、昭和31年12月の時刻表からご覧いただくこととしましょう。
888
青のラインで囲んであるのが、特急あさかぜ、両端の京都始発の2本の急行(熊本行き天草と、長崎行き玄海)が、あさかぜが大阪を深夜2時に到着する代わりの代替列車と言うことで本社が提案したスジと言われています。

img693
ちなみに、あさかぜ運転前の、昭和30年7月の時刻表がこちらになります。


昭和31年11月20日の改正で「特急あさかぜ」が東京~博多間に運転開始されたました。
この運転には関西支社(大鉄局)が難色を示したそうです。

参考 景気循環と国鉄 第3話 特急あさかぜの誕生
併せてご覧くださいませ。


 最終的には、関西始発の急行列車を二本増発することで、押し切られたとも言われていますが、結果的に常態的に列車が取れない列車として「あさかぜ」は人気を博したと言われています。
222
     画像 wikipedia

その結果、32年7月には続行運転の形で下りは30分後、上りは30分前を走る臨時特急「さちかぜ」が東京~博多間に設定されました。
223
画像 wikipedia

臨時とは言いながら、毎日運転の臨時列車として運転されたと言います。
 この列車は、ひとまず昭和32年9月一杯までは臨時列車として、10月1日からは東京~長崎間の定期列車として運転を開始することになりました。
 
sachikaze

引用 http://nihonkai.exp.jp/hm/s/sachikaze.html

ただ、続行運転の上「あさかぜ」と「さちかぜ」と名称が似ていたため、誤乗が続出し、昭和33年10月の改正では名称を「平和」に改めたうえ出発時刻も2時間ほど繰り上げることとなりました。これが後の「さくら」となるのですが、この時は「長崎平和の鐘」をイメージした、鐘が描かれたヘッドマークを掲出していました。
heiwa-h

http://nihonkai.exp.jp/hm/h/heiwa.html

ただし、平和という愛称はどうも馴染まなかったのか、昭和34年7月の改正で、「さくら」も「あさかぜ」に続き、20系ブルートレイン化されることになると、名称は「さくら」に再び変更されてしまいました。
余談ですが、平和という愛称はどうにも馴染まないようで、へいわ(初代)→はと、平和(2代)→さくら へいわ(3代)→つばめ、と長続きしない名称ではありました。

ヘッドマークの画像は、日本海ファクトリーさんの画像をお借りしました。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr



皆様、久々に投稿させていただきます。
本日は、昭和45年10月の時刻表から函館本線をアップしてみたいと思います。
青函トンネルもなく、新幹線も東京~大阪間しか走っていない時期では、北海道までの旅は、細則でも17時間強かかりました。
当時の時刻表を見ますと、上野を15:40に出発した特急「はつかり3号」で青森0:10、青函連絡船に20分の連絡で、0:30出航で4:20函館着、函館線経由の特急「おおぞら1号」で札幌着が9:00でした。
img665
東北本線、15:40に上野駅を出た「はつかり」は0:30に青森に到着、そこから連絡船に乗り換えて4:20に函館着のダイヤでした。
img681


全区間急行列車になると、上野は12:10発の急行十和田で、青森23:40、青函連絡船が0:50に乗車したとして、「急行ニセコ1号」の出発が、函館5:05、終着札幌には10:06ですので22時間近くかかったことになります。
img684

当時のはつかり号はクハネ583を両端に持ってきた583系電車であり、当時の編成を見ますとグリーン車が2号車に連結されており、極力歩かなくとも乗車できるように配慮されていたようです。

さらに、北海道では特急「おおぞら1号」・「北海」が5分の時間差で函館駅を発車していくダイヤになっていました。何れもキハ82を先頭とする80系気動車で運転されていましたが、おおぞら1号は、札幌で3両切り離すとはいえ、グリーン車が2両と食堂車の同道3両編成、北海はグリーン車1両・食堂車1両を連結した7両編成で運転されていました。
tetsu-cafe_tennouji1

img686
室蘭線・千歳線経由のあおぞら1号、堂々の13両編成

img685
函館本線【通称山線経由】は7連の基本編成


さて、そこで同じパターンで急行列車はどうだったのでしょうか?
急行十和田1号は12両編成の座席車だけの輸送力列車で中間7号車に食堂車、6号車にグリーン車が連結されていました。
img679
急行十和田編成

さて、北海道で有名であった急行ニセコ号ですが、函館発のニセコ1号は、キハ56・キハ27による気動車急行であり、C62重連の急行列車としても全国的に有名だったニセコ1・3号は(函館発は3号)でした。

img680


*****************************************************************
取材・記事の執筆等はお気軽にお問い合わせください。
下記、入力フォームからお送りいただけると助かります。
http://jnrera3.webcrow.jp/contact.html

日本国有鉄道研究家・国鉄があった時代
http://jnrera3.webcrow.jp/index.html
*****************************************************************

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr



本日は、北陸本線にスポットを当ててみたいと思います。
北陸本線は、滋賀県米原市の米原駅から直江津駅までの区間でしたが、現在は金沢~直江津間が経営分離されたので、金沢までなんですね。苦笑
昔の記憶で書いてしまうところでした。

北陸本線と言えば、敦賀まで直流化されましたが、それ以前は交流電化でしたよね。元々、全区間直流で電化する予定だったのが仙山線での結果が良かったので急遽予定が変更されて、昭和32年には商用電化での初めての本格的電化区間となりましたね、。
また、米原~田村の間が非電化で残されE10やD50形がけん引するなど、米原から先は東海道線とは少し違った雰囲気がありました。
仮に、北陸本線が直流で電化されていたら、また雰囲気も変わっていたかもしれませんよね、・・・という妄想も広がります。
さて、余談はさておき、昭和42年の時刻表で北陸本線を楽しんでいただこうと思います。
今回参照したのは、昭和42年2月の時刻表です。
img664
これを見てみますと、新幹線開業前は東京~大阪間を走っていた夜行急行金星が、大阪~富山間の夜行列車として運転され、「つるぎ」は座席夜行、金星が寝台車連結の夜行列車として棲み分けが出来ているようです。
ただ、寝台専用にしないところに、オール寝台では満席に出来ないという不安が残っていたことが伺えます。
他にも、能登が東海道線経由で米原から金沢を目指していますが、これは名古屋まで「急行大和」と併結運転のためであり、東京から名古屋間は堂々の14両編成、名古屋で後ろ6両を切り離し、残り前8両が金沢行きとして運転されていたようです。
img665


他にも、「急行きたぐに」は新潟までのローカル急行であり、和倉行きの奥能登と併結運転されています。
当時の日本海縦貫急行は、急行日本海であり、日本海が特急に格上げされさい、同列車の愛称が変更されて「急行きたぐに」となりました。
他にも、山陰線の特急列車としての方が知名度は高いでしょうが、「あさしお」が急行列車として、米子発小浜線経由金沢行きの列車として運転されているのも興味深いですね。


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr

↑このページのトップヘ