blackcatこと鉄道ジャーナリスト 加藤好啓 国鉄夜話

国鉄時代の写真並びに時刻表などを中心にアップさせていただきます。 国鉄に関する資料等も順次アップさせていただきます。 取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に blackcat.kat@gmail.comにメール またはメッセージ、コメントにて お待ちしております。

カテゴリ: 鉄道

 昭和45年3月改正の時刻表
昭和45年、平成生まれの人では昭和の年号などと言われても正直困惑する人も多いと思いますが、1970年と言えば何となく判っていただけるでしょうか。
EXPO'70と言う名称で、大阪府吹田市の千里丘丘陵で、3月15日から9月13日までの183日間開催されました。
1280px-Osaka_Expo'70_Kodak+Ricoh_Pavilion

Wikipediaを参照しますと、  
アジア初かつ日本で最初の国際博覧会(General category:一般博、現・登録博)であり、当時史上最大の規模を誇った。
と書かれています。

実際に、
総入場者数:64,218,770人(うち外国人 約170万人)
目標入場者数:3,000万人(その後5,000万人に上方修正)
参加国数:77か国4国際機関
ということで、その規模は大変なものであり、国鉄も旅客輸送に12系客車を増備したほか、新幹線を増発するなどの準備がなされました。
当時の記録などを参照しますと、万国博の入場者は、当初、出足は鈍かったそうですが、春先から来訪者が増えて、夏場には後述するように、エキスポこだまなる臨時列車を走らせることとなりました。
また、「ひかり号」は、全列車16両編成に統一されていました。

半年間だけ存在した駅が時刻表に・・・。
  昭和45年の時刻表を見ますと、阪急の千里線には北千里の手前に、万国博西口駅が、北大阪急行では万国博中央口駅の文字を見ることができます。
阪急千里線に万博西口が、そして、万博中央口の駅名
今は、中央口の駅があったであろう付近は完全に中国道の下になっていますので、廃線跡ですってアップしたら、廃線ファンに叱られますね。苦笑
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万博中央口と万博西口の名称が
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阪急の方には、万国博西口の表示が

img395
何故か、北大阪急行の表示がありません、2月24日開業なんですけどね。


そして、エキスポこだまは当初の臨時列車としては設定されていませんでした。
そして、改めて昭和45年3月の時刻表【復刻版ですけれど】取り寄せて分かったことは、3月の時点では、エキスポこだまは設定されていなかったと言うこと。
img396
エキスポこだまって何? 
エキスポこだまは、静岡、6:47発のこだまの五分前に設定され、大阪を22:58に出発し、三島に6:53に到着する夜行列車に接続して、三島を7:05に出発して東京駅に8:10に到着するダイヤでした。
この列車が、3月の時点では設定されていないことが確認できました。

なお、昭和45年7月号の時刻表を取り寄せて言いますので、その時刻表であれば掲載されていると思われますので、改めてアップさせていただきます。

ということで、「エキスポこだま」は次回に

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今回は、昭和33年10月改正に時刻表からになります。
全国版時刻表では無く、支社監修の時刻表と言うことで、九州地区の時刻は詳しいのですが、東北・北海道などが省略されています。苦笑
当時の西部支社というのが、九州全域と中国地方【広島・山口】を管轄していたので、時刻表を見ますと、概ね滋賀以西しか地図すら載っていません。笑img322
その中で、今回は、大阪から西に向かう時刻表に注目してみたいと思います。
それがこちら、
img324
右側に行くと丁度寝台列車が下ってくる時刻になるのですが、「特急平和」という名前が目に入ってきます。
まさか、ここでリアルに時刻表で見ることが出来るとは・・・。
この長崎行きの「平和」という列車、昭和33年10月のダイヤ改正で誕生するのですが、昭和34年の改正では、「さくら」に再び改称されてしまうため、非常に貴重なんです。

個々で、簡単に「へいわ」号のお話をおさらいしてみようと思います。

へいわ号は、感じの場合を含めて合計三回登場していますが、いずれも1年内外で廃止になっています。

最初のへいわ号は、
昭和24年9月のダイヤ改正で誕生しました。
しかし、この列車は当初から仮名ということで、公募により変更されることが最初からアナウンスされていました。
リリーフ特急と言えましょう。
その後、へいわ号は、「特急つばめ」に変更されます。
戦前は、「燕」と漢字で表現でしたが、戦後は「つばめ」とひらがなで表現されることとなりました。
個々で、一度へいわ号の、活躍は幕を閉じます。

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その後、昭和は、この時刻表にアップしました、昭和33年10月の改正で、東京~長崎を運転する列車として誕生します。
長崎の平和の鐘をイメージして、釣り鐘に平和の文字を組み合わせた比較的シンプルなものでした。
この列車も、実は短命で、昭和34年7月の改正で、「特急さくら」に愛称が変更されてしまいます。
s34
大阪からの、特急平和号の時刻です。

s34-2
九州島内、鹿児島本線のダイヤ

s34-3
嵯峨に停車すると、諫早までノンストップです。

列車本体を、「さくら号」に譲ることにより、再び、平和という名称の特急列車は引退してしまいます。

平和号が再び登場するのは、昭和36年10月の改正でした。
今度は東京からの列車ではなく。大阪始発広島行きの列車として、キハ82により誕生します。
img336
昭和

広島→大阪のビジネス利用を目的として居たようで、下り列車は18:00と比較的遅く、広島着も22:40と当時の列車としては、かなり遅い列車でした。調べて見ますと、広島は逆に7:30となっており、広島~大阪へのビジネス列車としての性格を持っていたことがうかがわれます。
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本日も久微にランダムに開いた時刻表からと言うことで、昭和35年3月号の時刻表を紐解いてみたいと思います。

昭和35年、1960年
国鉄の3等級制が廃止され、2等級制になった年でもありました。
2等級制になったのは、昭和35年7月で、6月にデビューしたパーラーカーは、本来は1等展望車の代わりでしたが、2等級制になるが判っていましたので、クロとしてデビュー、ただし、1ヶ月だけ3等級制により2等車として運用するため、出入り口の1の表示をカバーで囲み、2としていました。

今回取りあげました時刻表は、3月号であり、展望車が連結された青大将と呼ばれる編成で走っていた頃のお話です。
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1等~3等までの各等特急ですが、3等車が5両と半車、2等車が食堂車を挟んで5両、1等展望車が1両の11両編成であり、食堂車が2等車の間に挟まれているのは暗に3等客の利用を排除していたものと推測されます。
img308

早速、時刻表を開いてみますと・・・。

特急「つばめ」は、朝9時、東京駅を出発、その30分後には急行「なにわ」が同じく、大阪に下っていきます。

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当時の特急は、文字通り特別なものであり、多くの庶民と呼ばれる人たちは、「なにわ」に乗車するのでした。

なにわは、非常に人気のある列車だったようで、常に100%以上の乗車率【座れない列車】ということでも有名だたようです。

下図参照
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余談ですが、3等車は、スハ44と呼ばれる客車が使用され、「つばめ・はと」での運用廃止後は、団体線用列車用に改造され、回転クロスシート化すると共に、南紀観光団体専用列車に投入されることとなりました。
南紀観光団体専用列車は東京~伊勢(二見浦)を経由して、勝浦・白浜・京都を観光して東京に戻る、現在のクルージングトレイン?のようなものでした。
まぁ、現在のクルーズトレインのように、富裕層向けという性格のものではなく、団体旅行の延長のようなものでした。
経済が復興して、少しずつ旅行に行くだけの余裕が出てきたことから、実現したものでした。

併せてご覧ください。
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本日は昭和42(1967)年の2月号の時刻表から、函館本線 函館~長万部間をピックアップしてみたいと思います。
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当時は、北海道に渡るのは船で渡るのが一般的であり、旅客も貨物も青函連絡船を利用して運ばれていました。
そして、連絡船の発着に合わせて優等列車が次々と発車する様子を見ることが出来ます。
深夜00:01に青森を出港した一便は、朝9:30に上野を出発する、急行「第2みちのく」(ある機関助士に出てくる客車列車)と同じく13:15に上野を出発する特急「はつかり」を受けて出港する便で、早朝3:50に函館に到着するのでした。
そこで接続するのが、特急「おおぞら」80系の堂々12両編成でした。1~5両が函館~旭川、6~12の7両食堂車を含む編成で、函館~釧路まで運転していました。
各々編成には1等車【グリーン車】が連結されており、「おおとり」と共通運用になっていました。
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更に、その10分後には101便が到着しますが、9分後に出発しますが、到着は4:20と20分ほど遅偉大屋ですので、旧型のタイプが投入されていたのかもしれません。
なお、101便は救済便のような扱いであり、上記の2列車からの受入がメインのようです。
北海道側では、急行ライラック【札幌行きが受け持つようで、5:00に函館を出発するようであり、この列車を利用すれば、札幌には10:00丁度に到達できるようで、急行みちのくを経由してくると、24時間30分で札幌まで到達できることになります。すきゃなー^
現在では札幌まで飛行機が一般的なことを考えると隔世の感があります。
ちなみにカシオペアが運転されていた頃でも、上野16:20発→札幌11:15着と言うことを考えると、青函連絡船時代の。上野13:15発の上野発の「はつかり」+「おおぞら」の組合せで、札幌に8:40に到着することを考えると、客車列車と気動車の加速の違い等もあるかもしれませんが、20分しか早くなっていないというのは不可解な気がします。
さて、連絡船の方を改めてみますと、その後は青森発6:40、7:05と続行便が続き、6:40発の103便、7:05発の3便を受けて、特急「おおとり」、急行「宗谷」が出発していきます。
これらは、急行「八甲田」、特急「はくつる」を受けています。
特急はくつるは、九州特急では廃止になった座席車が2両連結されており、20系最後の座席特急としてゆうづる共々貴重な座席夜行となっていました。
なお、急行宗谷は、列車名が示すとおり稚内を目指す列車であり、終着稚内には23:08分と言うことで約12時間走る続けるのですが、最後まで乗車した人はどれくらいいたのでしょうか。
さらに、青森を9:40と午前中に出発する便は、上野を21:30に出る特急「ゆうづる」を受けており、安いスキャナーなので見えませんが、原本を見ますと、特急北斗、旭川行きが受けています。
連絡船は13:25着、13:45 函館発特急北斗、旭川行きとして千歳・室蘭本線経由で20:27に旭川に到着していたようです。
12:05に青森を出発する、207便は、急行「第1津軽」を受ける便で、急行「十和田」からの便も一応受けています。
第1津軽は秋田の人にしてみれば、出世列車と呼ばれるほどの超一流列車で、あけぼのが誕生するまでは、津軽で帰省することは、東京で成功したことを意味するとさえ言われていました。
俣、その辺は別の機会に書かせていただきます。
そして、この207便を受けて函館を出発るするのは、急行「第1すずらん」で、21:15に札幌に到着する列車であり、この辺までが日着圏の時間帯としては最も遅い時間帯と思われます。
まだ複数の列車がありますが、ありは省略とさせていただきます。
現在は、上野~札幌間は列車に乗ることが目的とした特殊な列車で無い限り、それだけの長距離の区間を列車に乗ってくれるのは鉄道ファン以外は居ないのでは無いでしょうか。

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東京~金沢と言えば現在は北陸新幹線を利用すれば、二時間半ほどで金沢まで到達できます、今回のお話は、今から半世紀以上前のお話です。
東京発金沢行きの寝台列車がありました。
その列車名は、「急行能登」
新幹線開業前には夜行列車は、3往復設定されており、1往復は信越線経由の越前(福井行き)もう1往復は上越線経由、急行北陸(金沢行)、そしてしんがりが、東海道・北陸本線経由、急行能登(金沢行)でした。
下記時刻表は、新幹線開業前の昭和36年7月の時刻表です。
img233
能登は単独運転ではなく、那智・伊勢ということで3階建ての急行列車として運転されています。
当時の線路容量が逼迫していたことも原因かもしれませんが、能登は東海道区間は、単独運転は無かったようです。銀河が神戸まで運転となっていますが、三ノ宮が開発されるのは昭和30年代後半からであり、この当時はまだまだ神戸駅が神戸市の中心部でした。

さて、次の時刻表は、新幹線開業後の昭和41年10月の時刻表です。
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こちらでは、伊勢・那智が単独列車となり、能登は大和と連結される形となっています。
大和は、和歌山市迄直通の寝台車が一両あり、普通列車に連結されて和歌山市まで下っていました。
なお、能登は一時期単独運転を行っていますが、新幹線開業後は、東海道本線を走る夜行列車は減少していくこととなり、昭和42年10月の時刻表では走っていますが、昭和44年の時刻表では走っていませんのでヨンサントウの改正で廃止されたものだと思われます。
能登が北陸線経由で残った背景には、東海道線の輸送力を確保する目的が有ったといえそうです。
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昭和42年10月時刻表から

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