blackcatこと鉄道ジャーナリスト 加藤好啓 国鉄夜話

国鉄時代の写真並びに時刻表などを中心にアップさせていただきます。 国鉄に関する資料等も順次アップさせていただきます。 取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に blackcat.kat@gmail.comにメール またはメッセージ、コメントにて お待ちしております。

カテゴリ: 鉄道

瀬戸と言えば、サンライズを思い浮かべる方も多いと思うのですが、実はヨンサントウと呼ばれるダイヤ改正で準急格上げの「急行うわじま」に合併されてしまいましたが、少なくとも昭和25年の時刻改正の頃から四国には「せと」という列車が走っていたと言うことを知っていただければと思います。

復刻版である昭和25年10月号の時刻表を確認しますと、昭和25年10月(安芸併結の急行列車を受ける形で、「準急せと」すでに愛称が付けられています。)が松山まで運転されており、19:25に到着したと記録があります。
取りあえず復刻版を含めて遡れるのはここまででした。
更にもう少し調べれば何か答えが出て来るかと思うので、もう少し古い資料を探してみたいと思いますが。

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昭和25年から「せと」という名称で連絡列車が走っていたことには驚かされます。

さらに、昭和28年2月の時刻表では、本州の急行瀬戸を受ける形で、「準急列車せと」が走っています。
高松桟橋15:20、宇和島22:20着のダイヤになっています。東京を22:00丁度に出発ですから24時間20分に旅となります。
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その後は順調に成長?したようで、途中は端折りますが、昭和40年の時刻表を見ますと、「せと」は2往復に成長?しています。
並行して走る列車として「準急うわじま」が「第1せと」に寄り添うように走っていました。

準急の方が停車駅が多く同じ気動車運転でしたが停車駅が若干多いこともあって、宇和j間到着時には60分も差が付けられていました。

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なお、ちなみに昭和41年10月の時刻表では、「急行せと(四国島内急行)」は2往復となっています。
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私も生まれる前ですが、今から65年ほど前、昭和28年の時刻表を紐解いてみたいと思います。
手元の65年前の時刻表(復刻版ではない)があるのですが、さすがに紙の質が良くないので、あまり無茶をすると壊れてしまいそうです。
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イラストは、EF56をイメージしているように思われます。
さて、今回は東北本線にスポットを当ててみたいと思います。
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最初は、上野から福島間の時刻表ですが。
見開き1枚で収まってしまうほどしか列車が走っていなかったと言うことになるのですが。
急行列車にも愛称が付けられたのが、昭和25年11月からであり、準急行などにはまだ愛称すらついていない列車もあったようです。
さて、この時刻表を見てみますと、上野発青森行き「急行青葉」2・3等急行で食堂車付きとなっています。
戦前は、急行は和食堂・特急は洋食堂と言った具合に分かれていましたが、戦後はそうした区分も無くなったようです。
また、当時は長距離普通列車が設定されており、東北本線では3本111・113・115列車 全ての列車に2等車(グリーン車)が連結されていたことが判ります。
当時は自動車等が発達しておらず、自ずと鉄道の利用がメインとなるため、普通列車でも2等車の連結はどうしても必要でした。

同じく、福島から青森を覗いてみたいと思います。
常磐線からの列車が仙台から合流するため、俄然夜行列車が賑やかになります。
当時は東北本線も常磐線も非電化であったため、速度や輸送力の点で、平坦線が多い常磐線の方が長距離列車には有利であったため、常磐線には多数の優等列車が運転されていました。
この傾向は昭和40年代のブルトレ全盛期にも見られ、東北本線が「はくつる」のみに対して、対北海道輸送を引き受ける常磐線列車は「ゆうづる」は5往復運転されたと言う記録もあります。
更にこれを見ていますと、急行北斗の隣、1201列車「特殊列車」の名称がを見ることができますが、これは進駐軍時代の、「Yankee Limited」(北部特急)として運転されていた列車の名残で講和条約以後は日本人も普通の乗れたのですが、特殊列車という名称自体が乗りにくくさせていたと言えますね。
特殊列車の愛称は昭和29年10月のダイヤ改正で完全に廃止され、特殊列車は新たに「十和田」という愛称を与えられました。
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時刻表がらみのお話ばかりでは面白くないだろうと言うことで、時々各鉄道博物館に保存されている車両について、随時解説を加えさせていただきます。
まず、最初に取り上げるのは161系(博物館では、クハ181形式電車(車号 クハ181-45)1965(昭和40)年製造と書かれていますが実はこの標記正しくありません。
確かに改造で1965年に181系40番台として誕生で正しいのかもしれませんが、より正しく表記するのであれば、161系昭和37(1962)年製造の車両を151系共々改造した車両と表現すべきであり、屋根部のウインカーも再現(ダミー)したのであればなおさら、161系として保存展示して欲しかったなぁと言うのが正直な感想

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http://www.railway-museum.jp/zone/history/04.html#04

さて、ここで161系について簡単に解説を加えさせていただきますと。
昭和37年6月に電化開業する上越線用に当初は151系を増備しようと言う案があったそうですが、急勾配区間が続くこともあり、157系と151系で上越線で試運転を行ったそうですが、151系は瀬野八で区間でも機関車の補機が必要であったように、途中でモーターの過熱を起こして運転が難しいことが判明、逆に同じモーターでも歯数比を変更した157系は何の問題もなく運転できたことから157系の足回りに151系のボディを載せた車両を161系として15両が製造されたそうです。
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その後、MT46A形より出力を20%向上させたMT54が開発され、新幹線開業後に余剰となる151系を上越線特急の増発に充てるとともに、従来の161系も改造により181系に統合されることになりました。
特に181系40番台は、短スカート(これはスノープロウをスカート下に取り付けるため)が特徴であり、161系のオリジナルを残す貴重な車両でもあります。
説明書き並びに、181系-40番台から161系に復元して欲しいなぁと言うのが正直な感想です。
私の勘違いをご指摘いただきましたので、ていせいさせていただきます。
クハ181-44・45の2両は161系として発注されるのですが、落成時にはクハ181-44・45として落成したそうです。
ということで、161系の流れをくむ181系という表現がより正しいと言うことになります。
お詫びして訂正いたします。
申し訳ございませんでした。

取材・講演などお待ちしております。
国鉄があった時代のお問合せフォームからお願いいたします。
http://jnrera3.webcrow.jp/contact.html
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大和路快速の新大阪発があった?
みなさま今晩は、久々に更新させていただこうと思います。
現在の大和路快速は、天王寺発大阪経由奈良行きであり、このスタイルは実は、昭和48年(1973)の電化開業当時から変わらないスタイルなのですが、今から30年程前、奈良から新大阪まで直通する快速電車が運転された時期がありました。img533
これを見てもらうとよくわかるのですが、停車駅は新大阪・西九条・新今宮・天王寺・王寺・法隆寺・奈良となっています。
停車駅の少なさが目につきます、新大阪を出ると現在の「はるか」や「くろしお」が通過するルートを経由して奈良まで入っていました。

臨時列車として運転
何故こんな列車が運転されたのでしょうかそれは「なら・シルクロード博覧会」が開催されていたからであり、それに呼応する形で新幹線との利便性を高めることを目的に運転されました。
使用車両は、103系であり、新幹線から乗換がロングシートというのも個人的には嫌なのですが・・・まぁ、これは仕方のないことかもしれませんでした。
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同系車が臨時快速に充当されました。

湊町~天王寺間は運休に
この臨時列車のダイヤは、特別に作ったものではなく既存の列車ダイヤの一部を修正したものでした。
元々の列車ダイヤでは、新今宮から湊町に入るのですが、新今宮から湊町(現在のJRなんば)の区間を運休し、新今宮から新大阪間にダイヤを押しこむ形で計画されました。
元々湊町に乗り入れていた快速電車は103系でしたので、そのまま快速電車が新大阪まで乗り入れることになったのです。
当時は4両編成が乗り入れていたように記憶していますが、当時は仕事が忙しくて殆ど写真も撮っていません。
今となっては大いに悔やまれるところではあります。

踏切の遮断時間が問題になって一時的な扱いに・・・。
ただ、ここで大きな問題が起こりましたそれは福島駅下の踏切の遮断時間がさらに増えて交通渋滞が増えるのではないかという問題でした。
当時は、阪神がまだ地下線になっておらず、梅田を出るとすぐに地上に出てきてJR福島駅のすぐそばを阪神電車が行き来していたわけです。
あれほどの交通量の多いところで、平成5年まで阪神が地上を走っていたことの方が驚かされるのですが。(^^♪
当然、20分に1本も昼間だけとはいえ電車が増えるとそれでなくても渋滞で待たされるのにさらに遮断される時間が増えると大問題になりました。
イベント期間だけ
ということで、整理がついたかで約半年間の辛抱となったのですが・・・その後阪和線の改良工事が行われ阪和線が直接新大阪まで乗り入れるようになったのは、皆様ご存じのとおりです。
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皆さまこんばんは、本日は昭和47年3月15日のダイヤ改正
新幹線岡山開業を見ていただこうと思います。
昭和39年の東海道新幹線開業から8年、岡山まで新幹線が開業しました。
山陽新幹線の特徴は、新大阪を境としてひかり号の種類を分けて、各駅停車タイプと速達タイプに分かれていました。
これは、東海道区間と比して、輸送需要は小さいからと考えられたからですが、1桁番号のひかり号が速達タイプで、新大阪~岡山間ノンストップ
2桁番号のひかりが号が、西明石・相生を通過するタイプ、3桁番号のひかり号が、岡山まで各駅停車タイプであり、こだま号は区間運転列車として早朝の新大阪発の送り込み編成だけしか設定されていませんでした。

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当時の新幹線岡山開業を告げるCM放送
 

これにより、大阪発着の昼行特急列車は、「しおじ」、「なは・日向」、「かもめ」、「みどり」、急行べっぷ1号・つくし1号」の他、東京発の長距離急行「高千穂・桜島」も残りました。
高千穂・桜島は、東海道線最後の昼行急行客車列車としての役割を担っており、東京10:00発大阪18:04着、亜終点西鹿児島は10:51(日豊本線経由は14:51)と各々24時間以上走る列車も残っていました。
さらに、夜行列車に関してもその殆どが大阪始発で残され、岡山始発となったのは、「つばめ」「はと」、「月光」の3種類となりました。
それでは、当時の時刻表から見ていただこうと思います。
昭和47年3月15日改正の時刻表を時系列的に並べてあります。
ただし、1番は夜行列車のみであったため省略させていただきました。

つばめ・はとは仲良く岡山発となり、山陽が補完列車としての役割を果たしています。
日向・なは、みどり等は、何れも大阪始発の特急列車として残っています。
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下関行き特急「しおじ」は全て大阪始発となっており、181系の他運用の都合で485系も使われていました。
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大阪始発西鹿児島行きの「急行屋久島」も運転されていました。
広島から夜行区間に入り西鹿児島には朝着く夜行列車としての使命を持っていました。
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夕刻の夜行列車タイムは、ブルートレインの乱舞であり、特急あかつき・彗星・明星・きりしま等に混じって急行列車「日南」等も運転されているのが見えます。
そう考えると当時の大阪駅は夕刻からは10分おきくらいに夜行列車(寝台列車)が旅立っていきました。
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1時過ぎに大阪駅に停車する「特急金星」までの時間は大阪駅はある意味鉄道ファンにしてみればゴールデンタイムと言えましょう。
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参考 昭和46年10月時刻改正 の時刻表を添付させていただきます。

「はと51号」が大阪始発になっています。
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