加藤好啓 国鉄夜話

国鉄時代の写真並びに時刻表などを中心にアップさせていただきます。 国鉄に関する資料等も順次アップさせていただきます。 取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に blackcat.kat@gmail.comにメール またはメッセージ、コメントにて お待ちしております。

カテゴリ: 鉄道

「あすか」と言えば一般の方は、奈良県の、飛鳥地方又は飛鳥時代というイメージを持たれる方も多いかと思います。
何れにしても奈良県と関わりの深い名前と言えそうです。
鉄道ファン的には、お座敷客車の「あすか」とか、我々くらいの年代であれば、短命特急の「あすか」を連想する方も多いかと思います。
実際、特急「あすか」は、特急「くろしお」の間合い運用というか、回送を兼ねたような列車で、配置区が和歌山機関区であったことから、早朝(朝7:00)に和歌山駅を出発、堺市から(より正確には杉本町から分岐していた貨物線を使って関西線の久宝寺に入り、そのまま名古屋まで走っていました。名古屋到着後、紀勢本線を下って天王寺まで戻ってくるもので、その後回送され和歌山機関区に入庫するのは22時半頃になるものダイヤでした。同じように、朝に天王寺に回送されるくろしおも同様で、天王寺を9時に出発、名古屋到着後すぐに折り返しで上記と逆にルートで、堺市から阪和線を下って22:30頃に和歌山に戻るダイヤでした。何れにしても早朝7時過ぎには再び出場するわけで、かなり効率的に言い方を変えればハードな運用についていました。

さて、そんなあすかという名称ですが、今回ご紹介するのは昭和48年10月の時刻表で見かけた快速列車の名称です。
この列車臨時列車として運転されていたようですが、現在手元にある時刻表で見る限りでは、昭和48年9月、49年2月、49年5月、49年10月では運転されていません。
ちなみに、昭和48年の時刻表を参照しますと以下のようになっていました。
京都~(奈良)笠置に向かう臨時列車で、気動車で三往復運転されています。指定席などは無かったようですが、三往復とも同じ「あすか」の愛称がつけられていました。
運用等は以下の図の通りです。
スクリーンショット 2024-02-15 230103
奈良機関区を出発して、京都~笠置を結ぶ列車として運転されていました。
ただ、後にも先にも快速「あすか」という名称は出てきません。

写真を参考に作成してみました。
快速あすかのヘッドマーク
スクリーンショット 2024-02-15 232903

戦後の引揚げ列車の象徴駅 南風崎駅

大村線に南風崎駅という小駅がありますが、ここが戦後しばらくは、本国への帰還者を受け入れる駅として非常に重要な役割を果たしました。
ここからは、臨時列車を含めて3往復もの東京行き(1本は上野行き)列車が設定されていました。
終戦後、引揚げ事業に関しては、当初は各省庁がバラバラに行っていたので、それをGHQの指示により、一本化されたそうで、厚生省の外局として、引揚げ援護局が全国で18箇所設置されました。
戦前、海軍の病院があった、浦頭と言う港に帰還船は着岸し、ここで、検疫を受けた後、約5kmの道のりを歩いて、南風崎駅に向かったそうです。
キャプチャ

駅から出ていた列車は、3本
引揚げ列車時刻表

上記は、昭和22年6月号(復刻版)の時刻表から引用したものです、普通列車ではありますが夜間帯などでは当然のことながら通過する駅もあるのですが、各主要駅での停車時間が長いところもあり、大阪~東京間が14時間、大阪までで概ね24時間程かかっているのがごらんいただけるかと思います。

名古屋~京都間を結んだもう一つの急行
昭和60年3月の改正で廃止になった、急行平安という列車をご存じだろうか?
名古屋~京都を関西線・草津線経由で結んだ列車で、この列車は誕生当初から、単独運転が行なわれたことはなく、常に他の列車と併結されて走る列車でした。
今回は、そんな急行平安のお話をさせていただこうと思います。

昭和37年4月ダイヤ改正で誕生
昭和37年4月15日のダイヤ改正で、関西線・草津線経由の気動車準急「平安」が2往復設定されます。
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桑名から15:45に平安2号とあるのは、数の運用図のとおり折り返し運用で入るためです。

4両編成のなのですが、この列車柘植までは、「急行かすが」との併結運転となり、柘植~京都間のみ単独運転となります。
ちなみに、運用イメージはこんな感じです。準急平安

名古屋まで戻らず、桑名で折り返すのは、名古屋まで行くと、もう一編成必要になるためでした。
桑名で20分ほどの折り返しで、再び西下、亀山駅で準急鳥羽・勝浦を併結して、京都に戻り、京都で鳥羽・勝浦を解放して、再び18:40には、京都を出発、柘植で再び「かすが」を連結して、名古屋まで戻り、名古屋には21:27に帰ってくる運用でした。

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当時の編成がちょっと判らないのですが、時刻表で見る限りは、平安にも一等車【グリーン車】が連結されているように見えます。
昭和43年10月改正で一往復減
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昭和42年10月時刻表から(平安の桑名折り返しがあるので二往復ある)
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昭和42年10月時刻表 桑名発の平安2号の表示が見える

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昭和43年10月改正で、平安は桑名折り返しが廃止され、1往復となる。同時に「かすが」も、湊町~奈良間が廃止され、名古屋発の「しらはま1号」が運転開始、京都発の「しらはま」と併結して白浜まで走ることに

その他、補足事項
昭和41年の改正では、100km以上の準急列車が急行に格上げされることとなり、急行「平安」となります。
昭和43年10月の改正では、「桑名行き」が廃止となり、「平安」は一往復となり、名古屋始発8:05 「平安・かすが1号・しらはま1号」の3両編成で運転、奈良から、京都発の「しらはま1号」を併結して、和歌山線を下っていく列車となりました。平安は10:42、京都到着後は、18:55まで優等列車の運用はありません。

福知山線を走る優等列車たち
昭和45年 の時刻表を参照しますと、福知山線はもちろん非電化単線なのですが、以外と優等列車が多いことに驚かされます。
8:01 大阪を出発する、京都発博多行きまつかぜ、京都7:25→博多 20:50着、のロングラン
流石に全区間乗り通すのは余程の物好きか鉄道ファンくらいだと思います、実際、同区間は、かもめであれば17:17に博多に到着しますし、新大阪10:35発の「はと1号」であれば19:01に博多に到着、11:37大阪発の「つばめ」でも、20:00に博多に到着できるわけですから。
もっとも現在は新幹線で2時間半ほどですからそう考えると、新幹線威力はやはり凄いです。
さて、本題の山陰線・福知山線のダイヤを再び見てみようと思います。
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大阪は20:30~23:30までは、夜行列が6本?
さて、本題の山陰線・福知山線のダイヤを再び見てみようと思います。
季節列車とは言え、数多くの臨時列車が設定されています。だいせん4号のような季節臨もあります。
今では、寝台列車はおろか、夜行列車も無くなってしまいましたが、この時は座席夜行が多いとはいえ、6本もの夜行列車が走っているのは特筆に値します。
20:24 大阪発→8:31 浜田着 だいせん71号 客車列車
21:06 大阪発→4:40 米子着 だいせん52号 気動車列車
21:25 大阪発→7:20 大社着 だいせん3号 客車列車(定期列車)
22:05 大阪発→6:15 米子着 だいせん52号 客車列車
22:50 大阪発→8:45 大社着 だいせん4号 客車列車
23:30 大阪発→6:58 米子着 だいせん54号 気動車列車
だいせん3号以外は全て臨時列車となります。
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普通列車と互角?優等列車
福知山線の普通列車が20本(大阪駅基準、篠山口までの区間列車を含む)に対して、優等列車は16本あります。
内訳は、特急2本、急行14本ですので、かなりの本数です。
さらに、福知山線からの長距離鈍行と呼ばれる列車は意外と少なく、3本だけです。
5:37 大阪発→19:30 出雲市
10:08 大阪発→20:43 米子
11:48 大阪発→20:34 鳥取
となっていますが、これらの長距離鈍行は、荷物並びに郵便輸送の使命を持っていますので、荷物輸送が廃止されると、運用の合理化と相まって減少していきましたね。

現在は、電車化されて、篠山口までは通勤区間になりつつありますが、優等列車の「こうのとり」が四両編成とかみると寂しい気分にさせられますよね。
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この画像のみwikipedikaから引用

昭和36年10月の改正で誕生した白鳥号
白鳥号は、昭和36年10月、サンロクトウの改正で誕生した特急で、同時期は、まつかぜ・かもめ・へいわ・みどり【車両の落成が間に合わず12月15日まで運休】が誕生しました。
白鳥号は、大阪発上野行きの信越白鳥と大阪発青森行きの青森白鳥を6両ずつ連結する12両編成で、へいずれの編成にも食堂車が連結されるというなんとも豪華な編成でした。
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昭和38年10月からは14両の堂々たる編成に
昭和37年には、信越白鳥は、キハが1両増結される7両編成に、更に昭和38年10月の改正では、青森白鳥も7両編成となり堂々の14両となりました。
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なお、当時の信越白鳥は、アプト区間である横軽を通過しています。
通常のブレーキ装置では、横軽区間のラックレールにブレーキシューが支障することが判明し、ここを通過できる車両は空気バネ付でかつディスクブレーキを備えた車両が使われることとなり、急行与党してはキハ57形が、特急用としてはキハ80形の2次車からはディスクブレーキが採用されました。【後にはつかり形の初期車もディスクブレーキ方式の台車に置換えられ、元々のはつかり用の台車はキロ28等に転用されたようです。
昭和40年10月 信越白鳥を分離、上越線経由の「はくたか」として独立
昭和40年10月の改正では、信越白鳥が分離します、既に粘着運転になっていたとはいえ安全上の理由から8両までに制限されていたこともあり、上越線経由に変更のうえ、名称も「はくたか」と変更して堂々の11両編成で運転を開始しました。
まだ、この頃には489系は誕生していませんでした。

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昭和47年、白新線・羽越本線の鉄道の電化により485系電車に衣替え
白新線・羽越本線の電化が完成したことから、青森白鳥も晴れて電車に変更となり若干にスピードアップも行われます。
当時の白鳥には、常に最新の車両が投入されていたようで、200番代が白鳥に使われているのを見た記憶があります。
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北海道向け車両も一年間ほど運用に入ることに
昭和49年から一年間は、北海道用に製造された485系1500番台が充当されていました。
この車両は限定運用で有ったこともあり、前面の愛称表示もステッカーを上から貼っており異色の存在ではありました。

 昭和57年からは2往復に 昭和60年3月からは再び1往復に
ダイヤ改正により、金沢駅 - 青森駅間の急行「しらゆき」を発展的解消させて、福井駅~青森駅間で1往復を増発。
福井駅 - 青森駅間の「白鳥」1・4号を系統分割、「北越」・「いなほ」とし、白鳥は再び1往復になります。
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画像 wikipedia

なお、昭和61(1986)年から、向日町から上沼垂運転区に変更そのままJRに移行、民営化後もJR東の車両と社員が大阪まで乗務することになりました。
その後、平成9(1997)年に再び白鳥は、向日町受け持ちとなりました。
白鳥廃止時まで、受け持ちはJR東日本の車掌が担当していたそうです。
(誤りである旨、指摘を頂きましたので訂正させていただきました。ありがとうございました。)



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