blackcatこと鉄道ジャーナリスト 加藤好啓 国鉄夜話

国鉄時代の写真並びに時刻表などを中心にアップさせていただきます。 国鉄に関する資料等も順次アップさせていただきます。 取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に blackcat.kat@gmail.comにメール またはメッセージ、コメントにて お待ちしております。

カテゴリ: 鉄道

現在のJRでは、列車種別は、特急・快速・普通(快速も普通電車ですが)となっています。
嘗ての国鉄時代には、特急・急行・普通(快速を含む)と3種類の列車がありました。

更に遡って、昭和30年代の時刻表などを参照しますと、特急・急行・準急・普通という4つの種別があります。
戦前は、準急は実質快速列車のようなもので準急行料金は不要でしたが、戦後国鉄発足後は準急料金も必要になりました。

国鉄はご存じのとおり昭和39年(1964)から赤字決算になったのはご存じのことと思いますが、増収の思惑もあって、昭和41年3月の運賃改定時に、100km以上走行する準急列車は急行に格上げすることとしたのです。

元々、準急という列車種別が設けられていました。
当時の特急は文字通り特別な急行列車であり、庶民が簡単の乗れる・・・そんな代物ではなかったのです。
自ずと急行列車が庶民の特急で有ったわけです。
ただ、戦後の荒廃で車両の整備もままならず、ローカル線の列車等では古い客車を使わざるを得ず、そんな列車に急行料金を取るのも憚られることから、準急行として走らせていたという経緯もあります。
実際には、関西線の「準急かすが」のように普通列車でも評判の悪かったキハ17系をわざわざ当時の準急色に塗り替えて、キロハ18と呼ばれる半室2等車(グリーン車)を連結させていたというとんでもない列車等がありました。

急行列車の急行料金というのはそうした意味では、設備料金という位置づけだったのです。

実際には、準急東海のように153系電車が投入され、客車急行よりも早く快適な列車もあったりしました。
実際には客車列車や急行電車にはリクライニングシートの2等車(グリーン車)や食堂車(ビュフェ含む)といった供食設備も充実しており昨今の在来線特急よりもサービスは良かった部分もありました。

しかし、その御車両の増備が続いたことで、気動車でしたらキハ28・58による急行列車の他間合い運用で準急列車等にも入るようになると、いよいよ準急=安かろう・悪かろう では無くなってきたことや、増収の思惑から、100km以上走行する準急列車は一斉に急行になったのです。
一部の列車では100km未満でも併結列車が急行の場合は急行を名乗ることになりました。
昭和41年10月の改正で、名古屋~北濃間で運転を開始した「急行おくみの」は全線70kmほどですが、急行たかやまと併結のため、急行扱いになっていました。
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昭和41年10月の時刻表から引用

下図の時刻表を見ていただくと、同じ列車名でありながら昭和40年10月の時刻表では準急に、翌年の昭和41年10月時刻表では急行列車になっています。
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昭和40年まで準急であった、みささ、かいけ、砂丘等は準急になっています。
初乗り運賃が10円から20円に上がり、かつ準急時代はどこまで乗っても100円だったのが、距離に応じて100円~500円の間となり、「みささ」で大阪から鳥取まで乗車すると、今まで100円であった列車券が300円と急行料金だけで3倍になった計算になります。

参考までに、昭和40年の準急並びに急行料金と昭和41年の準急並びに急行料金をご覧ください


昭和40年の運賃表、300kmでと300km以上という分け方となっています。
長距離になるほど割安と言えます。
なお、1等(現・グリーン車)の端数は通行税が1割かかるためです。
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昭和41年10月時刻表
100km~1000km以上までの地帯区分が細分化し200kmまでは同額ですが401km以上はかなり大きな値上げになりました。

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ひかり号といえば、東海道・山陽線を走る特急で、今は「のぞみ」の陰に隠れて目立たなくなってしまいましたが、「のぞみ」が誕生するまでは、東海道・山陽新幹線の最速列車として君臨していました。
さて、この「ひかり号」という名称、元々九州のローカル急行から召し上げたということは、色々な本で紹介されているのでよくご存じのことかと思います。
この列車はユニークな運転経路をしていました。
昭和38年10月の時刻表を参照してみますと。
西鹿児島(現・鹿児島中央)を8:55に出発すると日豊本線を北上して博多を目指すルートを走る急行列車でした。
更にユニークなのは、三角から熊本を経て豊肥本線経由で大分で西鹿児島からきた列車と合流する運用となっていました。
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昭和38年10月の時刻表 日豊本線 西鹿児島~延岡間

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昭和38年10月の時刻表 日豊本線 延岡~門司港間 大分で豊肥本線からの熊本始発の列車を併結して、門司港・博多を目指します。
「準急ひまわり」は、元の「準急第2ひかり」の名称を変更したもの。(大分発別府行き)他にも、宮崎発博多経由西鹿児島行きと言った長距離列車も走っていました。
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昭和38年10月の時刻表 鹿児島本線 小倉~博多間

更に時代を遡ってみますと、昭和37年10月のダイヤ改正まで、「ひかり」は2往復体制を堅持していました。
この列車はユニークで、大分発別府行きでした。(昭和37年の改正では、西鹿児島発の列車は急行に格上げされましたが、大分発別府行きそのまま準急で残され愛称も、「ひまわり」に変更されました。
この列車は大分から日豊本線を北上し、鹿児島本線、豊肥本線を経由して再び別府に到着する列車でした。
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昭和36年7月の時刻表 日豊本線 西鹿児島~延岡間
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昭和36年7月の時刻表 日豊本線 延岡~門司港間
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昭和36年7月の時刻表 鹿児島本線 小倉~博多間

改めて、昔の時刻表を見るとユニークな列車が多かったものだと思い知らされますね。

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昭和34年に登場した、修学旅行電車「ひので」「きぼう」ですが、その成功を受けて中京地区でも修学旅行電車を昭和35年に利用債を引き受けて製作することになったのですが、昭和34年の伊勢湾台風被害のため、昭和35年からの利用債引き受けは困難となったそうです、そんな中、国鉄は名古屋地区の修学旅行生のために153系の予備車をかき集めて修学旅行専用電車として運転、大いに感謝されたと言います。
そして、正式昭和36年には中京地区専用として159系電車が製造されることとなりました。

名古屋地区は、「こまどり」の愛称で「大垣~品川」間で運転されました。

基本的なスタイルは155系と同じながら下記の点が異なっていました。

155系では2+3人掛けでしたが、159系では2+2人掛けとなり153系と差異が無くなりました。
また、これに伴い網棚の形も同様に変更されました。
また、155系では、座席の間に専用のスペーサーを入れることで簡易ベッドにしていましたが、159系ではA寝台下段のように、座席を前に引き出すことで簡易ベッドにすることが出来るようになっていました。
何れも、カーテンを上からつるせるようになっていたことは言うまでもありません。
他に外観の特徴としては、155系では定員が多いこともあって103系などと同じ円筒形の通風器でしたが、159系では153系と同じ押し込み式通風機になるなど若干仕様が変更されていました。

それ以外は、155系も159系もほぼ同じでしたが、
中京地区の159系は「臨時準急ながら」等に使われる機会が多かったと聞いています。

その後、165系ベースの167系も製造されていきますが、これはまた別の機会にでもお話しましょう。

他にも、国鉄では修学旅行電車の気動車版がありました。こちらは、専用形式と言う訳ではなく、キハ58-800番台として、塗装が修学旅行用色になった他、テーブルの増設置などが行われた程度であり、九州地区では「とびうめ」東北地区では「おもいで」という愛称で使われたようですが、運転期間は短かったのか時刻表には特段の表示はありませんでした。
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画像 Wikipedia (塗装だけ修学旅行色にした似非800番台)

今となっては、思い出の記憶の中にしかないこれレ他の列車ですが、ふと思い出し語り合って生ける機会があれば幸いです。

標題は155系になっているのですが、写っている車両は159系と言うオチですね。苦笑(1.50辺りから155系が出てきますが、155系と159系、167系がごっちゃになっています。

まぁ、どうでもいいことなんですけどね。

保存

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修学旅行電車と言う専用電車が有った頃
修学旅行用電車(気動車)というものがかって存在すると言うと奇異に感じられる人も多いのではないでしょうか。
昭和を遡ること50年以上前、昭和34年、国鉄で「修学旅行専用電車」が製作されました。
この電車は、前年に登場した153系をベースに修学旅行向けにカスタマイズされた専用電車で、製造も国鉄の予算ではなく利用債というものを発行してそれを引き受けてもらうという方式で製作されました。
京阪神地区並びに東京の中学校PTAなどが利用債を引き受ける形で国鉄が車両を製造したと聞いています。

国鉄が利用債(特別鉄道債券)が発行され償還期間は10年でした、償還期間終了後はの昭和46年以降は新幹線の利用が一般的になってきたこともあり、修学旅行用電車の運用は終了しました。
それ以後は、湘南色になって153系と混用されて、主に臨時列車用として使われるようになったそうです。

修学旅行電車が出来る前は引率の先生は大変
さて、修学旅行電車が出来るまでは引率の先生は大変でした、というのも当時は寄せ集めの客車などが使われるのが一般的でした、更に若い人には想像もつかないかもしれませんが、ドアはいつでも自由に開閉と言うか、ドア自体開放されたままですので、途中駅で降りて行方不明になった・・・なんてこともあったとか無かったとか・・・どちらにしても先生としても目が離せないという点で大変であったと言われています。
一時期、80系電車で運転したところ、途中駅でもドアを開けなければ勝手に降りることはないので先生の負担が軽減したことも、修学旅行電車を作る気運になったと言われています。

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修学旅行電車を作ろう
修学旅行電車は、国鉄への要望と言うことと、利用債を東京都及び京阪神修学旅行委員会等が引き受けることで話がまとまり、国鉄は車両を製造することとなりました。
ただ、155系は修学旅行用と言うことで特化した部分と、引き受け金額を少しでも抑えるために153系と異なる点がいくつかりました。
外観上で異なる点は、
  • 前面のスカートを省略した
  • 台車を空気ばねから101系などと同じ電動車はDT21A・付随車はディスクブレーキ装備のTR62
  • 車体屋根の高さが全体に低くなり中央線の狭小トンネルでも乗り入れれ出来るようになった。
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それ以外にも修学旅行電車として、独特の装備も設けられていました。
  • ドアの幅が70㎝と特急列車並みとなった。
  • シートの配置が在来線では初めて、2+3の座席配置として、座席の上に網棚が来る構造とした。
  • シートの上に蛍光灯が来る構造とした。
  • シーとの間にテーブルが置ける構造になっていた。
  • 調光式を採用し、夜間は照明の照度を下げて安眠しやすくした。
  • 修学旅行生向けに大型の洗面台、男子用小便器、他にも飲料水タンクを2個設置し、水筒に水を補給できるようになっていました。
  • 運転室の助士席側にはテープレコーダを設置して放送で流せるような仕組みも配慮されていたそうです。
  • さらに、先頭車の一部の座席では簡易ベッドに出来るようになっており、体調不良等の場合は休養できるようになっていました。
さらに、先頭車だけですが、速度計の電力に余裕があったことから二つに回路を分岐して運転台用並びに、客室にもスピードメータを付けていたそうで、これは原設計にはなく、メーカーの発案で取り付けられたそうで、修学旅行を一生の思い出にという親心と言ったところでしょう。

修学旅行電車は新幹線へ
修学旅行電車は、10年の償還期間が終わる以前から、利用債を引き受けていない私立学校などでは新幹線を利用していました、そこで利用債の終了を機に昭和6年以降からは新幹線での利用が一般的となり現在に至っています。

余談ですが、私が中学校の修学旅行で関東方面に行った際は、行きは新幹線、帰りはストライキの影響で新幹線も動かず、結局観光バスで熱海から和歌山まで帰ってくると言うとんでもない事態になりました。

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JR発足時の運転ダイヤ・・・実は昭和61年10月に作られました。
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昭和61年時刻表

昭和62年4月1日JR各社は発足しますが、運転ダイヤは昭和61年10月のまま、ということで国鉄時代のダイヤを踏襲していたことになり、本格的なJRのダイヤ改正は昭和63年3月のダイヤ改正まで待つ必要がありました。
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と言っても、実際のダイヤ改正の素案などは昭和61年頃からスタートしているので、昭和63年の改正も、基本構想は国鉄時代に出来上がっていたそうです。
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余談ですが、JR発足当初は、JR各社で設計図の使いまわしと言うか借用は有ったようで、
リゾートサルーン・フェスタの先頭車のガラスは、スーパーエクスプレスレインボーの下端を短くしただけで共通の設計図と言うか部品を使ったということも聞いたことがあります。
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リゾートサルーン・フェスタ

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スーパーエクスプレスレインボー

当時は分割したとはいえ、元々同じ国鉄と言う組織ですから、管理局が大型化したみたいな感じだったのではないかと思いますが、30年もたつとその辺の意識は薄れて来るようですね。

特に、東京駅の新幹線乗り場を見るとつくづくそう思います。
歴史にIFは無いけれど、分割されていなかったら東北新幹線が品川着だったリ、その逆に東海道新幹線が上野まで乗入なんてことも普通に行われていたんだろうなぁと・・・。-

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