昭和36年10月全国白紙ダイヤ改正で、従来の、東京~南紀方面への団体列車の他に、東京~北海道方面、東京~九州方面、関西~長野~日光方面の団体専用列車を設定しました。
今回は、こうした団体列車のお話を中心にさせていただこうと思います。

昭和36年3月、南紀観光団体列車誕生
昭和34年7月、全線開通した紀勢本線には、開通当初から「急行那智」が設定されていましたが、さらなる南紀観光の列車として、スハ44系一方向固定シートを回転式に改造した車両が投入される事となりました。
当初の運転区間では、東京~白浜口(現在の白浜)翌日まで車両も停泊、翌朝和歌山線経由で京都、一時間半ほど停車後東京へ

旅客は
東京→新宮・勝浦(観光客はいずれかで下車)列車はそのまま白浜口 (泊)(観光客は全員下車) 
白浜口→東和歌山→京都(観光客は全員下車・前日の観光客を受けて東京に出発) 

注1:(泊)・・・車両も滞泊の意味
注2:運転開始当初は、紀和駅(当時は和歌山駅)で中之島経由となるため進行方向が変更されることに
旅行は5月6日であるが、車両は3泊4日で2編成省略することが出来る。

昭和36年10月の改正で一気に観光団体列車が増えることに

従来の南紀観光号は、伊勢が立ち寄る観光地に加えられ。東京→二見浦行きになりました。(列車は伊勢まで回送)そこで、二見浦及び伊勢神宮を参拝後、白浜へ・・・
旅客の流れとしては、
東京→二見浦・伊勢(観光参拝)→新宮・勝浦(観光客はいずれかで下車、宿泊)列車はそのまま白浜口 (泊)(前日の観光客を受けて白浜口まで運転、観光客は全員下車) 
白浜口→東和歌山→京都(観光客は全員下車・前日の観光客を受けて東京に出発) 

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となっており、若干出発時間がずれたのと、単独運転から急行出雲に併結となり帰京は、京都発京都観光団体専用列車と併結することとなり、単独運転は無くなりました。

東京~北海道向けの列車も設定されました。
当時は青函トンネルが開通して居らず、客車の航送なども行っていませんでしたので、列車としての設定は青森まで、北海道内は新製気動車による臨時扱いと言うことで運転されていたようです。
コースには以下のように、道南コースと阿寒地区を含めた2種類がありました。

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Aコースは、北海道半周コース
Bコースは、南北海道半周コース
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東京~長崎・大分、行き先は二つで一つの観光団体専用列車

東京を出発する九州観光団体列車は、早朝の7:08東京駅を出発、大分6:55、長崎には8:55に到着するダイヤとなっており、早朝から観光できることが特色となっていました。
観光客は、別府で宿泊した後、翌日早朝の列車で、宮崎、鹿児島と宿泊して、長崎を目指すルートであり、長崎周りの場合は、長崎から熊本へ、阿蘇に立ち寄り別府へ、別府で宿泊して翌日の大分発の観光団体列車で東京に帰京するダイヤとなっていました。
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大分周りは九州一周コース

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長崎周りは、長崎・阿蘇コース

経路もユニークだった、信越・日光観光団体専用列車

最後は、関西発日光行きの観光団体専用列車をアップしてみたいと思います。
経路もユニークで、Aコースの列車は大阪→名古屋→長野→高崎→日光という経路ですが、早朝に長野到着後善光寺参詣の後、一気に日光まで行くというダイヤで、高崎からは両毛線を経由して小山経由で日光に入るルートでした。
逆のBコースの場合は、日光から長野までは夜行列車となっており、翌日は長野でも宿泊と言うことで、日光よりも長野の観光を重点とするなど、微妙にそのルートが異なっていました。
観光団体は、この後日光から東京に戻るAコースの場合は、翌日は金星に併結される京都観光団体専用列車に連絡して帰るというダイヤとなっていました。
逆にBコースの場合は、京都始発で、南紀観光団体専用列車と併結される、京都観光団体専用列車で東京に来る列車と対になるように設定されていました。
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このように、ユニークな運転経路を持つ観光団体専用列車が誕生した背景には、経済の復興もあって、観光に対する需要も旺盛になってきたという背景と、こうした団体旅行の需要に国鉄が十分に応えられていないということもあり、あらかじめ団体列車として設定しておくことでこうした需要に応えたものでした。

昭和37年には、旅行斡旋会社の利用債引き受けによる団体観光専用の寝台列車が導入され600番台として区分されることとなりましたが、その辺は次回にでもお話をさせていただこうと思います。