加藤好啓 国鉄夜話

国鉄時代の写真並びに時刻表などを中心にアップさせていただきます。 国鉄に関する資料等も順次アップさせていただきます。 取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に blackcat.kat@gmail.comにメール またはメッセージ、コメントにて お待ちしております。

2017年01月

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皆様、おはようございます。
気が付くと1週間近くも空けてしまいました。
本日は、皆様を昭和50年3月の時刻表で時間旅行していただこうと思います。
昭和50年3月と言えば、皆さんもよくご存知のとおり山陽新幹線が博多まで開業した年です。
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そこで今回は、博多開業時の新幹線の時刻表を中心にお話をさせていただこうと思います。
昭和50年3月10日、山陽新幹線は岡山から博多間が開業し東京~博多は1本で繋がることとなりました。
これにより、東京~博多間は、最速6時間56分で結ばれることとなりました。
新幹線開業前であれば、東京~大阪とほぼ同じ距離を新幹線では博多まで行けることとなったわけです。
ただ、やはり7時間と言うのは時間としては短くないので、本格的な供食設備も必要であろうということで本格的な食堂車が開発され、これが36形食堂車と呼ばれる食堂車でした。
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0系36形食堂車

この食堂車、車体幅が在来線よりも広いことを活かして側通路方式として落ち着いて食事できるようにしたのですが、山側に通路を設けたため、富士山が見えないという問題が起こりました。
まぁ、食事しながら富士山と言うのもと思ったのですがそれなりの要望も多かったのでしょう、後に改造で食堂車内にも窓を設けることとなり、通路を隔てて山側の景色を見ることが出来るようになりました。

その後0系の後継として製作された100系では、ダブルデッカーとするとともに、通路並びに厨房を1階に設けることで山側の景色が見えないという問題と食堂車が通路代わりに使われるという問題を同時に解消しましたが、JR西日本はダブルデッカー4両連結の「グランドひかり」を製作しその存在感を見せつけました、特筆すべきは新幹線として弱め界磁を使って270km/h運転が出来るように準備されており実際に高速試験も行ったのですが、技術的には問題なかったようですが騒音問題がクリアできなかったようで、230km/h運転(0系は220km/h)が行われたにすぎませんでした。

その辺は、また別の機会にさせていただこうと思います。

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博多直通の「ひかり」は赤地に「ひかり」の通称あかひかりまたは「Wひかり」と呼ばれていました。
岡山以西が各駅停車になる「ひかり」は、青地に「ひかり」の通称あおひかりであり、大阪を境に輸送量が減るであろうということでこのような調整がなされていました。
まぁ、いまでも山陽新幹線の本数は、東海道新幹線と比べると少ないのですが、当時はもっと少なかったようですね。
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スキャナーから取り込んだものですので、多少の見苦しさはご容赦願います。

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国鉄があった時代 JNR-era
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みなさまこんばんは、本日は大阪駅を発着した夜行列車(特に山陽本線)を中心に見て行こうと思います。
昭和47年、新幹線は岡山まで延伸したとはいえ、大阪から発着する夜行列車は多く、彗星・あかつきが、夕刻から次々と西下して行ったものでした。
この当時は、関西ブルトレもヘッドマークを掲出しており、EF58が20系客車を引く姿はひときわ絵になったものでした。

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早速当時の時刻表を紐解いてみましょう。img260
ちょっと見えにくいのですが、17:22京都発の、急行雲仙2号 長崎行き(季節列車)から夜行列車の時間帯になり、定期列車としては、新大阪18:28発の「あかつき1号」から夜行タイムです。

この時刻表を見ていますと、18:28 新大阪始発の「あかつき1号」西鹿児島・長崎行き、さらに、その4分後の18:32には熊本行きの「あかつき」2号が運転されています。

特筆すべきは、「あかつき1号」は「はやぶさ」と車両を共用していたため、大阪発着の寝台特急では最後まで20系で残った列車で、夕方西下する20系「あかつき」は「あかつき」と書かれた淡い朱に浮かび上がる あかつき の文字が印象的でした。
次発の、「あかつき2号」は、14系客車による運転でした。

あかつき1号の8分後には同じく臨時列車で屋久島2号が運転されています。
実は、屋久島1号は15:05に大阪駅を出発する急行列車でした。

その後、あかつき2号の補完列車として雲仙3号が18:50新大阪を出発、
さらにその8分後には、寝台特急電車の明星1号が熊本まで運転されています。

19:32には、日豊本線方面に向かう彗星1号が都城行きとして運転しています。
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19:58には、再び熊本行きの明星2号が運転されています。
また、大阪始発ですが、日豊本線の宮崎行き列車として、「日南2号」
さらに、大阪駅 20:36には京都始発の「きりしま」寝台電車「西鹿児島」行きが運転されています。
更に、その30分後には再び「あかつき3号」が西鹿児島・佐世保行きが運転され、さらに30分後には同じく「あかつき4号」が熊本・長崎行きとして運転、更に30分後には、電車特急明星3号博多行きが・・・

ということで、関西始発の九州行き寝台特急は。「あかつき」「彗星」「明星」「きりしま」と4種類があり、客車列車で鹿児島本線経由は「あかつき」日豊本線経由は「彗星」さらに電車寝台は「明星」、何故か「きりしま」だけがこれまた単独で電車特急寝台として運転されていました。
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最後に、当時の主な列車の編成表を掲載させてもらいます。
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今晩は、本日は昭和47年の大阪駅に皆様をご案内したいと思います。
昭和47年3月15日、新幹線は岡山まで開業、



これにより山陽線内特急、「しおじ」と九州特急の一部、「日向」・「なは」・「みどり」・「かもめ」一部の九州急行が残りましたが、「つばめ」・「はと」は、岡山発着となり新幹線連絡列車となりました。また、急行山陽も岡山発着の列車として153系で運転されていました。
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153系による急行山陽

昭和47年の時刻表 大阪駅編
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下関行きの「特急しおじ1号」が出発、その後、特急「日向・なは」が出発していきます。
当時は併結相手の日向が非電化区間を走るため、なは、も架線下DCとして走っていたと記憶しております。
その後、昭和49年の延岡電化で日向も電車化されました。2016-11-07_54
岡山駅を出発する、特急なは

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「なは・日向」・「かもめ」・「みどり」と大阪駅から九州向けの特急が出発、他にも直通列車として
筑紫(つくし)が運転されており、ビュフエも営業していたようですね。

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昼間帯では、「しおじ」以外は、岡山発着の特急・急行が目立ちますね。
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なお、16:00以降のダイヤは後日アップさせていただきます。

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今回は、昭和38年の時刻表から常磐線をアップしたいと思います。
画像はいただきものですが、デビュー当時の「はつかり」の貴重な写真です。
キハ81は、その設計に際して地元の要望から高運転台のボンネットタイプとなったそうですが、当時はまだだブレット交換の区間もあったので、運転台の高さは電車よりもかなり低く設定されたこともあり、151系と比べると鈍重なイメージは免れません。

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交通博物館に保存されている161系 こうして比較するとキハ81の運転台が低いことが理解できます。

早速、常磐線の昭和38年の時刻表から見て行きましょう。
電車「準急ときわ1号」の表記が見えます。
これは新製されたばかりの451系が使用されていたようです、ただし準急列車なのでビュッフェも1等車の連結も見送られているようですね。
「準急ときわ」自体は、昭和33年の時刻改正からキハ55によるディーゼル急行として走っているようです。

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次ページをめくってみましょう、上野~水戸間は「全車指定席」の「準急ひたち」、更にその20分後には、ある機関助士でも出てくる、「急行みちのく」が出てきます。
当時はこうした、列車種別の異なる列車がほぼ同じ時間帯で走るということが多々ありました。
これは、旺盛なる輸送需要に応えたことと、特に上野~水戸間では長距離輸送は「急行みちのく」に任せて「平」までの中距離区間は準急に任せることで座席の確保を図っていたと思われます。

実際、「急行みちのく」は9:50上野発、青森到着が23:23ですから約14時間かけて走っていたわけですが、当時の編成を見ると、荷物車を含む13両の堂々たる編成で、荷物車1両、1等車2両(うち1両は自由席)+食堂車+2等車となっています。
最後尾の12号車は、上野~仙台間、9~11号車は上野~盛岡間で切り離される運用となっていたようです。
現在は、青森まで新幹線で3時間、隔世の感を禁じ得ません。

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こうしてみると急行列車の停車駅も少ないですよね。

更に時間旅行を進めましょう、夕方になると16:30には早々と「急行北上」が上野駅を出発します、青森到着は翌朝5:47、寝台列車の表記が見えます。同じく19:50には「急行北斗」が上野駅を出発します、その間に18:10 「急行十和田」、21:00には「第2十和田」(こちらは臨時列車のようです。)が運転されています。
さて、「北上」と「北斗」特に「北斗」は北海道でも列車名で使われていましたが、ずばりこの2列車は、北海道連絡の使命を持っており、「北上」は6:20青森発の13便に、「北斗」は9:50青森発の17便と接続していました。
逆に十和田に接続する便は無く、「十和田」が青森県内までの利用、「北上」「北斗」難い北海道連絡の使命を持っていたことが当時の時刻表からも見ることが出来ます。
「北上(ほくじょう)」とも読めますよね。笑


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最終ページを見ますと、東北・北海道観光団体列車なるものの表記が見えます。
こちらも、南紀観光団体列車と同様言わばお仕着せの団体旅行列車で、ナハネ11及び旧形客車を改造したオハネ17(いずれもその後冷房改造で、オハネ12、スハネ16に改番)が使用され、車体すそ部にクリーム色の細線が入った専用編成が使われたといいます。

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東海道新幹線、1時間に最高13本走るということで285km/hで3分間隔で走るとういうのもちょっと信じがたいし、
キャプチャ
京都駅などでは、交互にホームを使って、発車すると反対側のホームに次の列車が到着するというなんとも緻密なダイヤが組まれており、40万席以上の座席が確保されていると言われていますが、今から50年前、新幹線が出来る前の東海道線と言うのはどうだったのでしょうか。

しばし、昔の時刻表を見ながら、しばし時間旅行をお楽しみいただこうと思います。
昭和38年10月の時刻表を皆様に見ていただこうと思います。
新幹線開業を1年後に控えた最後のダイヤ改正です。
懐かしい名前がずらっと・・・。

つばめ・はと・こだま・富士・ひびき・…等々
「ひびき」は、元々は日光用として製作された157系を使用した特急でこの頃では「特急ひびき用」として増備されています。
157系に関してはデビュー当初は赤色が準急色と言うことで関西線113系に使われた朱色が使われていましたが。ひびきの定期運用に入った頃から、特急標準色に塗り替えられてしまいました。
準急用としてのスタートでしたので食堂車がないなど供食設備には不備が残りましたが在来線としては華やかな時代であったと言えましょう。
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第1こだま・ひびきなどの名称が見える。
特急列車は言うに及ばず、急行列車もビュフェ(東海道線では寿司を販売)していたが、職人の補充が難しくて東海道線以外ではうどん・そばコーナーになりました。
当時は、食堂車が設備されていないのは準急列車だけであり、急行列車の1等車はリクライニングシート準急の1等車は特急の3等車と同等と言うように設備面で大きく差をつけていました。

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この時間になると、急行「桜島」鹿児島本線経由西鹿児島行きが東京駅を出発していきます。
当時は不定期列車のためか食堂車も寝台車も連結は見送られています。東京~西鹿児島(現 鹿児島中央)まで約27時間の旅でした。

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次ページには、急行高千穂が同じく29時間の運転時間で西鹿児島迄日豊本線経由で運転されています、当時は高千穂が主流のようで、食堂車も連結されています。
ちょっと見にくいのですが、「特急第2つばめ」の5分後には「特急さくら」が出発、非常に豪華な共演だと言えそうです。

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19時台になると山陰・大阪方面行き急行列車が発車していきます。
急行出雲を皮切りに、伊勢・那智、はりま。能登(東海道・北陸線経由金沢行き)、安芸、銀河・・・と下って行く様は壮観だったと思いますね。

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