最近急速に223系と225系が増殖?している阪和線ですが。
今から40年ほど前には、阪和線には京阪神緩行の中古電車が集結していた時期がありました。元々阪和線は、阪和鉄道と言う私鉄でしたが山側を走っていたため業績は低迷、最後は社長の自殺と言う形で幕を引き、南海電鉄山手線となったものもつかの間、戦争激化により軍部の要請で南海電鉄山手線は国鉄阪和線となりました。
そんな経緯もあって、阪和線は外様大名のようなものだから国鉄としては冷遇しているのだろうという意見がまことしやかにあったのですが、実は阪和線の車両は非常に優秀な車両であったため、阪和線では重宝されていました。
モタ300形・モヨ100形に代表されるこれら車両は国鉄編入後は、機器類を国鉄形に変更したのです。
実際にブレーキ装置などは阪和電鉄時代の方が優れていたので、国鉄形になってグレードダウンしたと言われたものでした。
更に、昭和30年代には、南海電鉄の11001系(昇圧後は1001系)に対抗するため、阪和線には70系電車が新製配置されており、全金属車の300番台は横須賀線以外では阪和線が唯一でした。
この70系電車は、昭和50年の旧型車一掃まで阪和線を走り続けました。
さらに、昭和40年頃には103系も新製配置される等決して阪和線は国鉄本社から冷遇されていたわけではないのです、しかし、阪和線に旧形電車がどうして集中してしまったかと言うと、それは阪和社型の一斉廃車が有ったのが一つの原因でした。
丁度京浜東北線などで余剰となりつつあった73形などが大挙して押し寄せて阪和線に集まってしまったのです。 当時は、首都圏に集中して新車を入れてその玉突きで旧型車を地方に転出させる手法が取られていましたからこれは阪和線だけが割を食ったということにはならないと言えそうです。
ただ、この頃は南海電鉄は和歌山と大阪間での輸送で圧倒的有利に立っており、新性能電車7001系やその改良型である7101 系を増備していたこともあり阪和線としてもただ指をくわえてみているだけの状態であったことも事実でした。 南海本線が通る線路沿いは旧市街地に沿って走っているため、町が発展しているのに対し、阪和線は山間部を通っているため、鳳から向こうは殆ど玉ねぎ畑と言った風情で、実際東岸和田駅などでは玉ねぎ輸送のための側線が有りました。
実際、阪和線に夜乗ってみると、和泉府中を過ぎれば何も周りになくて闇の中を走るという表現がぴったりな感じでした。
あまりにも前置きが長くなりましたが 、そろそろ表題の快速表示板のお話をさせていただこうと思います。
当時の阪和線の列車種別は、特急・急行・快速・区間快速・普通で、特急と急行は紀勢本線直通の列車ですので、実際の阪和線のみの運転は、快速・区間快速・普通となります。
そして、快速電車のうち、旧形国電で走る電車にはその行き先を表示させるのに、下記のような表示板を掲出していました。
和歌山が、和可山と当て字なのはご愛敬ですが、この標識を電車の前に吊るして走っていました。
快速が、赤色表示で、区間快速は緑色となっていました。
余談ですが、区間快速は「直行」昭和43年頃まで直行と言う表示を使っていたようです。
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日本国有鉄道研究家・国鉄があった時代
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