blackcatこと鉄道ジャーナリスト 加藤好啓 国鉄夜話

国鉄時代の写真並びに時刻表などを中心にアップさせていただきます。 国鉄に関する資料等も順次アップさせていただきます。 取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に blackcat.kat@gmail.comにメール またはメッセージ、コメントにて お待ちしております。

日本国有鉄道の研究家として、「国鉄があった時代」というサイトを運営しております。
blackcatこと加藤好啓です。
鉄道に関する取材等はお気軽にお申し付けください。

すみません、またまた1週間近く空けてしまいましたが、しばしお付き合いください。
今回は、昭和38年の時刻表から常磐線をアップしたいと思います。
画像はいただきものですが、デビュー当時の「はつかり」の貴重な写真です。
キハ81は、その設計に際して地元の要望から高運転台のボンネットタイプとなったそうですが、当時はまだだブレット交換の区間もあったので、運転台の高さは電車よりもかなり低く設定されたこともあり、151系と比べると鈍重なイメージは免れません。

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交通博物館に保存されている161系 こうして比較するとキハ81の運転台が低いことが理解できます。

早速、常磐線の昭和38年の時刻表から見て行きましょう。
電車「準急ときわ1号」の表記が見えます。
これは新製されたばかりの451系が使用されていたようです、ただし準急列車なのでビュッフェも1等車の連結も見送られているようですね。
「準急ときわ」自体は、昭和33年の時刻改正からキハ55によるディーゼル急行として走っているようです。

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次ページをめくってみましょう、上野~水戸間は「全車指定席」の「準急ひたち」、更にその20分後には、ある機関助士でも出てくる、「急行みちのく」が出てきます。
当時はこうした、列車種別の異なる列車がほぼ同じ時間帯で走るということが多々ありました。
これは、旺盛なる輸送需要に応えたことと、特に上野~水戸間では長距離輸送は「急行みちのく」に任せて「平」までの中距離区間は準急に任せることで座席の確保を図っていたと思われます。

実際、「急行みちのく」は9:50上野発、青森到着が23:23ですから約14時間かけて走っていたわけですが、当時の編成を見ると、荷物車を含む13両の堂々たる編成で、荷物車1両、1等車2両(うち1両は自由席)+食堂車+2等車となっています。
最後尾の12号車は、上野~仙台間、9~11号車は上野~盛岡間で切り離される運用となっていたようです。
現在は、青森まで新幹線で3時間、隔世の感を禁じ得ません。

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こうしてみると急行列車の停車駅も少ないですよね。

更に時間旅行を進めましょう、夕方になると16:30には早々と「急行北上」が上野駅を出発します、青森到着は翌朝5:47、寝台列車の表記が見えます。同じく19:50には「急行北斗」が上野駅を出発します、その間に18:10 「急行十和田」、21:00には「第2十和田」(こちらは臨時列車のようです。)が運転されています。
さて、「北上」と「北斗」特に「北斗」は北海道でも列車名で使われていましたが、ずばりこの2列車は、北海道連絡の使命を持っており、「北上」は6:20青森発の13便に、「北斗」は9:50青森発の17便と接続していました。
逆に十和田に接続する便は無く、「十和田」が青森県内までの利用、「北上」「北斗」難い北海道連絡の使命を持っていたことが当時の時刻表からも見ることが出来ます。
「北上(ほくじょう)」とも読めますよね。笑


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最終ページを見ますと、東北・北海道観光団体列車なるものの表記が見えます。
こちらも、南紀観光団体列車と同様言わばお仕着せの団体旅行列車で、ナハネ11及び旧形客車を改造したオハネ17(いずれもその後冷房改造で、オハネ12、スハネ16に改番)が使用され、車体すそ部にクリーム色の細線が入った専用編成が使われたといいます。

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東海道新幹線、1時間に最高13本走るということで285km/hで3分間隔で走るとういうのもちょっと信じがたいし、
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京都駅などでは、公後のホームを使って、発車すると反対側のホームに次の列車が到着するというなんとも緻密なダイヤが組まれており、40万席以上の座席が確保されていると言われていますが、今から50年前、新幹線が出来る前の東海道線と言うのはどうだったのでしょうか。

しばし、昔の時刻表を見ながら、しばし時間旅行をお楽しみいただこうと思います。
昭和38年10月の時刻表を皆様に見ていただこうと思います。
新幹線開業を1年後に控えた最後のダイヤ改正です。
懐かしい名前がずらっと・・・。

つばめ・はと・こだま・富士・ひびき・…等々
「ひびき」は、元々は日光用として製作された157系を使用した特急でこの頃では「特急ひびき用」として増備されています。
157系に関してはデビュー当初は赤色が準急色と言うことで関西線113系に使われた朱色が使われていましたが。ひびきの定期運用に入った頃から、特急標準色に塗り替えられてしまいました。
準急用としてのスタートでしたので食堂車がないなど供食設備には不備が残りましたが在来線としては華やかな時代であったと言えましょう。
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第1こだま・ひびきなどの名称が見える。
特急列車は言うに及ばず、急行列車もビュフェ(東海道線では寿司を販売)していたが、職人の補充が難しくて東海道線以外ではうどん・そばコーナーになりました。
当時は、食堂車が設備されていないのは準急列車だけであり、急行列車の1等車はリクライニングシート準急の1等車は特急の3等車と同等と言うように設備面で大きく差をつけていました。

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この時間になると、急行桜島鹿児島本線経由西鹿児島行きが東京駅を出発当時は不定期列車のためか食堂車も寝台車も連結は見送られています。東京~西鹿児島(現 鹿児島中央)まで約27時間の旅でした。

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次ページには、急行高千穂が同じく29時間の運転時間で西鹿児島迄日豊本線経由で運転されています、当時は高千穂が主流のようで、食堂車も連結されています。
ちょっと見にくいのですが、「特急第2つばめ」の5分後には「特急さくら」が出発、非常に豪華な共演だと言えそうです。

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19時台になると山陰・大阪方面行き急行列車が発車していきます。
急行出雲を皮切りに、伊勢・那智、はりま。能登(東海道・北陸線経由金沢行き)、安芸、銀河・・・と下って行く様は壮観だったと思いますね。

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国鉄があった時代 JNR-era

昨日は153系の話だったのですけれど、今夜は117系の話など。
JR西日本の新快速は、昭和47年新幹線岡山開業で余剰となった153系を転用する形で運転開始をした新快速により現在の形が出来上がることとなった。
急行用だったので153系は全車冷房付き、6連での運用でしたが113系と異なりデッキ付きのため朝夕のラッシュ時には使いづらくデイタイムのみの運転でした。
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なお、この時に新快速に採用された塗り分けが灰色と水色(青22号)で塗装された新快速塗装でした。
同じ塗分けで113系もデビューしました。
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国鉄の新快速に最初に危機感を感じたのは京阪だったようで、昭和48年には3000系をデビューさせて1900系を置き換えています。
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画像 Wikipedia参照

京阪は線形の悪さも手伝って所要時間は45分程度かかっていたことも背景にあったかと思います。
阪急も、昭和50年に6300系を導入したことで、今度は国鉄が危機感を持ち、117系を導入することになるのですが、本社からは中々承認が降りなかったと言ったことを聞いたことがあります。

国鉄にしてみれば、地方管理局独自の車両を別設計することには難色を示していましたが、大阪鉄道管理局の局員の機転で、京都に宿をとり、阪急の6300系に国鉄幹部を乗せて、「153系では太刀打ちできないよ」と暗に理解できるように仕向けた・・・なんて話を聞いたのですが、私が直接聞いたわけではないので真意の程は判りませんが、これが本当なら、中々この当時の大鉄局の職員は策士だったんだろうなぁと思います。

他にも、当時は国鉄の運賃の値上げは春の風物詩のようになっており、国鉄の料金が平行する私鉄の運賃の倍近くになって、遅くて高い国鉄より、安くて速い私鉄に利用者が流れている時期だったことも影響していたと思います。
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117系のデビューは昭和54年ですが、54年?の正月の記事だったと思いますが関西にデビューする新型電車ということで、117系の完成予想イラストが紹介されていました。
この車両を最初に見た時は、まさかこんなかっこいい電車が出来るはずはないと子供心に思ったものです。

 それだけに、こんな立派な車両がという思いが強かったのです。
 イラストでは片側1灯づつだったライトが2灯になった点を除けばほぼイメージどおりの出来上がりでびっくり、さらに驚いたことは、同じ時期にデビューした185系よりも落着いた内装を持っていたことでした。
 デッキ付か否かの差はあっても片や特急用。片や普通列車用、普通列車用の117系がつや消し木目の落着いた内装に比べ185系はコルク模様のつやあり化粧板・・・・
 これを見た時は、大鉄局の心意気を感じたものです。

昭和55年1月22日から営業運転開始され、秋までには153系(一部165系)を淘汰し、その一部は中央線などに転用されたようです。

その後の中京圏にも117系が投入されたりしましたがその辺は割愛させていただきます。
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昭和47年10月の時刻表から抜粋 京都~姫路・草津~西明石の交互運用になっていました。

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