blackcatこと鉄道ジャーナリスト 加藤好啓 国鉄夜話

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高崎線の深谷駅、現在は東京駅を模した橋上駅舎が立っていますが、それまでは小さな駅だったようです。

今回のお話しは、大臣が圧力を掛けて急行列車を停車させたと言うことで、問題となったお話しの顛末なのですが。
結論から言うと、国鉄に以前から陳情を繰り返していたので、当時の国鉄総裁であった石田禮介が、一つくらい陳情を聞いてやろうと言うことで、決定したことが真相のようですが、議員自体の資質に問題があったようで、結果的にはそれ以外の疑惑が発覚して大臣の職を辞さなくてはならなくなったそうです。

まぁ、昭和時代の政治家は典型的な利益誘導型の議員が多かったことも事実であり、その辺は現在もあまり変わっていないところもありますが、この頃はかなり露骨にと言うパターンも多かったように思えます。

なお、この話には後日談もありまして、当日は深谷市会議員や市職員がさくら乗車して、そのまま折り返して帰ってきたという笑えない笑い話もあったそうで、新聞などでその辺も記事にされていました。


地元選出の自民党議員、荒舩清十郎と言う議員が、昭和40年頃何度も国鉄に陳情していたそうです。
当時の事情は、下記の弊ブログに詳しいのですが、大きい深谷には急行が停車しないで、本庄には停車することに対して、荒舩代議士【当時は大臣ではなかった】が、何度か陳情に行ったと発言しています。
それが、以下の国会議事録、第52回国会 参議院 運輸委員会 閉会後第1号 昭和41年9月12日 から引用したものです。

本庄市は、四万六、七千の人口であり、深谷は五万七、八千でございまして、なお首都圏整備法による工場団地が設定されておる現状から見まして、ぜひ何本か、ひとつ急行もとめてもらうし、始発電軍も出してもらいたいということで、数回にわたりまして実は国鉄に陳情に代議士当時参りました。これはまあそれがいいか悪いかは別でございますが、どなたも同じ県人であれば、そういうようなことは頼まれたり、またやったりすることだと思う。いい悪いは別です。そういたしまして、たまたま、六月の下旬か七月初旬かと思いますが、もちろん運輸大臣になるとも私は存じてない、想像もしておりませんでした。陳情に参りましたところが、まあそれは昭和三十一年ごろからそういう陳情もあるので、今度はダイヤ改正のときにはまあ前向きで何本か相談いたしますよ、前向きで考えますよと、そのことばははっきりいたしませんが、そういう返事でございました。
実際に当時の列車ダイヤを見ますと、本庄に準急列車は停車するものの深谷に停車する列車は1本もありません。
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上は、昭和41年1月号、下は昭和41年10月号の時刻表
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実際には、国鉄が既に何度も議員からの陳情があるからということで、当時の国鉄総裁、石田禮介の判断で、昭和41年のダイヤ改正で急行を上下4本だけですが停車させることを決定したのですが、丁度タイミング的に本人が佐藤内閣の運輸大臣に就任した時期と重なりました。
そこで、地元多少のリップサーブスも兼ねて、深谷にも急行列車が停車することになりましたと発言したものですから、大臣が圧力を掛けて急行を停車させたと、マスコミが騒ぎ立てた結果、荒舩大臣は2ヶ月で辞任に追い込まれてしまいました。
実際には、荒舩運輸大臣以上に問題のある代議士、田中彰治衆議院議員による詐欺や恐喝事件が有ったほか、これ以外にも公私混同と言われるような事例が多々あったことから、荒舩大臣の言動も圧力で列車を停めさせたと思われたのだとされています。
実際、深谷と本庄は駅間も近いこともあり、国鉄としてみればいたずらに停車駅を増やすことは望んでいなかった訳で、いくつかの陳情を既に受けていた中で、比較的簡単に実現できる停車駅追加を選んだ
わけでしょう。
まぁ、荒舩運輸大臣自身は濃くてつんの停車駅問題に関してはシロであったとしても、それ以外にも以下のように色々な疑惑が出てきたことから、結果的に荒舩大臣は、就任から2ヶ月後の10月11日に辞表を提出せざるを得ない事となったそうです。

  •     衆議院決算委員長在任中の1961年2月、田中彰治が関与したとされる大阪拘置所の土地交換に関わる恐喝疑惑に関し、田中とともに非公式に大阪に赴き、土地交換の関係者に面会していた。
  •     運輸大臣就任直後の1966年8月に各業界との懇談会を開いた際、荒舩の個人後援会「瀞白会」の役員が、業者に後援会への加入を勧誘した。
  •     1966年9月にソウルで開かれた日韓経済閣僚懇談会に出席した際、会議に関係のない民間業者2人を随行の形で同行させた。
  •     後援会の会員が経営する上野駅の構内食堂の拡張を国鉄に陳情した。
こうした一連の疑惑が積み重なり、荒舩は10月11日に辞表を提出したそうです。

地元のためというパフォーマンスと脇の甘さで辞任に追い込まれた政治家の話でした。
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「からくに」という列車は、昭和37年2月15日のダイヤ改正で「火の山」と共に誕生した準急でした。
当時の時刻表を参照しますと、以下のようなダイヤとなっています。
出水を11:11と比較的遅い時間に出発して、宮崎に15:07着
出水行きは、宮崎を16:05に出発して、出水には20:12ですので、運転時間にすれば4時間程度ですが。
ここで疑問なのは、宮崎はわかるとして、何故出水発着なのか?ということですよね。
一般的な列車設定であれば西鹿児島もしくは当時であれば鹿児島発でも良かったはずですが・・・
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ということで、ネットでいろいろ探していると、水俣にあるチッソ工場と旭化成を結ぶ列車だったという記事を見つけたのですが、どうもそれが正解のようですね。
チッソ(現在は事業部門はJNC株式会社)と旭化成は少なからず深い関係があったそうなので、その区間を利用する人たちのためにというのもありかもしれないですね。
余談ですが、1両だけの和歌山市発東京行き急行大和(王寺から和歌山市間は普通列車)も住友金属の出張のために設定されていたなんて言う話もありますので、どこまで本当か否かという話にもなりますが、興味深い話ではあります。

この列車は、設定当初から気動車なのですが、どのような編成だったのか。
また、どのような車両が使われていたのか残念ながら調査不足でわからないのですが、昭和41年にはキハ45と呼ばれる気動車で置き換えられたとありますから、本格的な急行形と呼ばれる車両ではなかったと思うのですが、なかなか興味は尽きません。
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準急列車としては、1962年2月15日、1966年3月には、急行に格上げされ。
この不思議な列車は、1972年3月の改正で消滅するまで同区間を走っていたことになります。
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戦後の引揚げ列車の象徴駅 南風崎駅

大村線に南風崎駅という小駅がありますが、ここが戦後しばらくは、本国への帰還者を受け入れる駅として非常に重要な役割を果たしました。
ここからは、臨時列車を含めて3往復もの東京行き(1本は上野行き)列車が設定されていました。
終戦後、引揚げ事業に関しては、当初は各省庁がバラバラに行っていたので、それをGHQの指示により、一本化されたそうで、厚生省の外局として、引揚げ援護局が全国で18箇所設置されました。
戦前、海軍の病院があった、浦頭と言う港に帰還船は着岸し、ここで、検疫を受けた後、約5kmの道のりを歩いて、南風崎駅に向かったそうです。
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駅から出ていた列車は、3本
引揚げ列車時刻表

上記は、昭和22年6月号(復刻版)の時刻表から引用したものです、普通列車ではありますが夜間帯などでは当然のことながら通過する駅もあるのですが、各主要駅での停車時間が長いところもあり、大阪~東京間が14時間、大阪までで概ね24時間程かかっているのがごらんいただけるかと思います。
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