blackcatこと鉄道ジャーナリスト 加藤好啓 国鉄夜話

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blackcatこと加藤好啓です。
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JR発足時の運転ダイヤ・・・実は昭和61年10月に作られました。
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昭和61年時刻表

昭和62年4月1日JR各社は発足しますが、運転ダイヤは昭和61年10月のまま、ということで国鉄時代のダイヤを踏襲していたことになり、本格的なJRのダイヤ改正は昭和63年3月のダイヤ改正まで待つ必要がありました。
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と言っても、実際のダイヤ改正の素案などは昭和61年頃からスタートしているので、昭和63年の改正も、基本構想は国鉄時代に出来上がっていたそうです。
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余談ですが、JR発足当初は、JR各社で設計図の使いまわしと言うか借用は有ったようで、
リゾートサルーン・フェスタの先頭車のガラスは、スーパーエクスプレスレインボーの下端を短くしただけで共通の設計図と言うか部品を使ったということも聞いたことがあります。
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リゾートサルーン・フェスタ

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スーパーエクスプレスレインボー

当時は分割したとはいえ、元々同じ国鉄と言う組織ですから、管理局が大型化したみたいな感じだったのではないかと思いますが、30年もたつとその辺の意識は薄れて来るようですね。

特に、東京駅の新幹線乗り場を見るとつくづくそう思います。
歴史にIFは無いけれど、分割されていなかったら東北新幹線が品川着だったリ、その逆に東海道新幹線が上野まで乗入なんてことも普通に行われていたんだろうなぁと・・・。-

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デスティネーションキャンペーンと言う言葉を良く聞くと思います。
JRグループ旅客6社と指定された自治体、地元の観光事業者等が共同で実施する大型観光キャンペーン
ですが、
その映えある?第1回目は和歌山でした。
「いい日旅立ち」のキャンペーンソングの中で「特急くろしお」&「寝台特急紀伊」 が中心に出てきますね。
紀勢本線の電化と連動させて11月から開始されたキャンペーンで和歌山県も全面的に協力したキャンペーンで、「いい日旅立ち」は山口百恵を代表する曲になるとともに、世代を通じて愛唱される歌謡曲となったと言えましょう。



さて、そんな最初のキャンペーンに輝いた紀勢本線ですが、昭和53年当時は高速道路の延伸も無く、白浜・勝浦の紀南方面は鉄道輸送がほぼ独占状態であり、また両方とも近畿の奥座敷の観光地として賑わっていました。
ただ、当時から白浜以南の人口が希薄なこともあり、紀勢本線の電化は和歌山~新宮間となったものの、旅客輸送の需要が多い和歌山~白浜間約100㎞については積極的な取り組みがなされた反面、白浜以東は電化のみと成りました。
白浜までは旅客入り込みが望めるので複線電化等の線路改良も併せて行われました。
それにより、一部区間は線路付け替えが行われ、南部付近など、海岸線を走っていた区間の一部がトンネルで覆われてしまうようになりました。
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いただき物の画像から 天王寺駅にて

また、この電化により国鉄は381系100番台電車を新製投入するとともに、普通電車も113系2000番台が(一部新製配置)されました。なお、電化開業前に乗務員訓練習熟用として、昭和51年には、紀勢線電化訓練用として7両編成が導入されています。
なお、電化工事は6月頃には完成し、7月からは訓練運転を兼ねて一部の列車は電車に置換えられ手10月を迎えています。
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以前に新快速のお話をさせていただきましたが、今回は阪和線を走った新快速のお話です。
阪和線を走った新快速が誕生したのは昭和47年3月のダイヤ改正で新快速が誕生(新幹線岡山開業で153系が余剰となりその玉突きで153系で新快速を増発、15分ダイヤが組まれるのですが、本社から大鉄に配属されている冷房装置付き113系電車を天鉄にいどうさせろtるを天鉄局に転属させろと言うことでかなり大鉄と本社の間で揉めたそうですが、結局本社に押し切られる形で113系を手放したのですが、その車両を使って運転開始になったのが阪和線の新快速になるわけです。

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当時は103系快速が53分から56分、113系も52分くらいかかっていましたので、45分は夢のような速さでした。
口の悪いファンからは戦前のレベルにやっと戻ったと言う人もいたようですが、実際には戦前の(阪和鉄道時代)特急はのストップでしたからそれよりも間違いなく早くなったと言えましょうか。
当時の停車駅は鳳のみでしたが。1時間に1本、更に停車駅が鳳のみでは利用者はあまり見込めず、何時のってもがらgらと言う印象はありました。
ても空いているなぁと言う印象がありました。
ただ、梅雨時などは窓も開けられなかったので、冷房装置の存在は本当にありがたかったです。
結局、南海電車対策を兼ねての登場かと思われますが、結局利用者は伸びず、昭和52年には熊取・和泉砂川が停車駅に追加され、45分運転は不可能となり、49分まで後退してしまい、従前の快速と5分程度しか変わらなくなりました。
更に昭和48年の関西線(湊町~奈良)の電化開業以降は春日塗の113系も新快速運用に入るときがあり、一度だけ梅雨時の雨の日写真撮影に行ったら、113系春日塗が新快速運用に入っていて、ちょっと乗っている人は蒸し暑かろうと同情したものでした。
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珍しいところでは、他にもこんな事例がありました。
それは、103系による新快速代走でした、昭和49年(1974年6月号の読者投稿で、3月22日阪和線で架線事故があり、車両のやりくりが付かなかったとのことで、103系による代走が走ったそうです。
この話は、意外と知らない人が多いのではないでしょうか?
ここにご披露させていただきます。
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画像はイメージです。

下記の記事は、実際に鉄道ピクトリアルに掲載された記事
1974年6月号から引用
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国鉄があった時代 JNR-era

 

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