加藤好啓 国鉄夜話

国鉄時代の写真並びに時刻表などを中心にアップさせていただきます。 国鉄に関する資料等も順次アップさせていただきます。 取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に blackcat.kat@gmail.comにメール またはメッセージ、コメントにて お待ちしております。

日本国有鉄道の研究家として、「国鉄があった時代」というサイトを運営しております。
blackcatこと加藤好啓です。
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はじめに
現在京都鉄道博物館に保存されているC5345号機ですが、この機関車は梅小路蒸気機関車館が開館する前は、今は無き大阪弁天町にあった、交通科学館の展示物としてマイテなどと共に展示されていました。
さて、このC5345号機、3シリンダーの唯一の機関車と言うことでご存じの方も多いかと思うのですが、どのような経緯でこの機関車が京都の鉄道博物館に辿り着き永久保存に至ったのかを簡単に振り返ってみたいと思います。
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強運の機関車C5345
C5345号機は昭和3(1928)年11月に汽車会社製造で製造され、梅小路庫(現在の京都鉄道博物館梅小路蒸気機関車館)に配属、その後姫路区・宮原区等を経て再び梅小路区に戻ることとなったそうです。
製造当初は、優等列車を中心に活躍しましたが、C59形の誕生とその機構の特殊性から戦後は持て余される存在となり、戦後は、昭和25年6月29日付でC5345号機は廃車となり、解体のため吹田工場に送られることとなったのであるが、工場の容量の関係もあり、長らく吹田操車場に放置されていたそうです。
そこで、吹田教習所(現在の西日本旅客鉄道社員研修センター)が教材として使用したいと申し出たことから正式に保管することとなり、吹田操車場から吹田第一機関区(当時は吹田機関区)に保存場所が変更され、昭和27年には教習所の教材として保管されていましたが、教室の増築などで手狭になり再び手放すこととなり、鷹取工場に送られたのですが、解体されることなく荒れるに任せての放置状態であったそうです。
そんな折、昭和35年9月に弁天町駅高架下に交通科学館(JR発足後は、交通科学博物館)の建設計画が具体化したことから、C5345号機を整備して、展示物の一つにして展示する案があり、具体的に動き出すこととなりました。

本格的な復元工事
外観の整備に留まらず、走行まで可能な状態に持って行くこととし。
  • 自力で本線試運転が出来る程の復元工事を行う
  • 外観も新製当時の状態に持って行くこと
  • 展示品として機関車内部などを参考することが考えられるので美観には特に意を払う
  • C53特有の三シリンダーの弁調整には十分注意する
等を意識しながら昭和36年6月15日から復元工事に着手、8月14日には試運転が行われたそうです。

鷹取~吹田間で公式試運転
9月20日には鷹取~吹田間で公式試運転が行われることとなり、高砂工場にて整備中であった、マロネフ59形及びスシ28形、マロテ49形に両端に控え車として、マニとスハフを挟んだ五両編成で、試運転が行われたそうです。
9月21日は大阪駅での展示が行われることとなり、昨日のマニを外した四両編成で、鷹取工場を出発、大阪駅で展示の後、15時には大阪駅を出発、吹田操、城東貨物線経由で竜華操へ、その後竜華から大阪港(浪速貨物駅)まで自力回送。そこで火を落として翌日は日本通運により陸送されてしかるべき場所に展示されたそうです。

その後、梅小路蒸気機関車館が開館するに際して再び搬出されて、浪速貨物駅から貨車扱いで梅小路まで運ばれたそうですが、あくまでも車籍がない備品扱いとして展示されていることは皆さまもよくご存じの通りです。

JGR-C53SteamLocomotive
画像 wikipedia C53形蒸気機関車

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昭和43年6月27日、大阪と青森を結ぶ特急白鳥ですが、山陰本線・小浜線経由で青森に向かったそうです。
その経緯は、東海道線膳所駅での脱線事故でした。
当時は湖西線は開通していませんので、膳所駅で事故が発生したことから当然のことながら大阪~北陸方面の列車も運休を余儀なくされました。
当時の国鉄は、せめて日本海縦貫線の特急だけは走らせたいとして、以下のような苦肉の経路で走らせることにしました。

実際にこのルートは、昭和37年8月26日の台風14号の14号の際にも迂回運転が行われているので実際には二回目と言うことになるわけですが、当時の国鉄の意地と言いますか中々ユニークな運転をしていたと言えそうです。
すなわち、
特急白鳥迂回計画大阪→京都【東海道線】→京都→綾部【山陰本線】→綾部→舞鶴【舞鶴線】 舞鶴→敦賀【小浜線】を経由して青森を目指したと言うことで、白鳥が気動車であったことが幸いしてこのような列車が実現したと言えるのですが、堂々14両編成が小浜線を走ったと言うのは非常に貴重な記録であったと言えるかも知れませんね。

ちなみに、膳所駅脱線事故というのは、以下のような事故でした。
東海道本線膳所駅構内で上り貨物列車が脱線転覆して本線と京阪電車を支障、機関士の居眠りが原因 6/27
0時25分頃上り吹田操車場発青森行貨物列車 「第4北海」 が副本線へ待避の際、時速35km制限のところを約時速70km で分岐点へ突人、その際、機関車EF60119が脱線、約300m暴走、ジャリにめり込みやっと停止. 貨車は機関車との連結器がはずれ約30両が転覆、横転し、信号所、並進する京阪電鉄石坂線、国鉄浜大津線へ突込んだ。 このとき架線の支柱が折れたことで、下り本線も支障。そこに、ほぼ同時に富山発吹田操車場行きの貨物列車3574列車が事故現場へ突入。架線の鉄柱に機関車 EH1018衝撃、機関車と貨車2両が転覆、特急16本、急行48本、電車55本など区間運休した
→京阪石山坂本線 国鉄膳所駅で起きた脱線転落事故のため浜大津 ~ 石山寺間が運休
→7/16 EH1018廃車

この事故は乗務員が二人とも居眠りしていたことが原因とされており、青森行き貨物列車が速度超過で脱線、機関車と貨車は連結器が外れ、45両の内30両が脱線・転覆、貨車の一部が下り線側の電柱を折ることとなり、吹田操行きの機関車と衝突、前面を大破した、EH10は約1ヶ月現場に放置された後、くず鉄扱いとして運び出されたと言われています。
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昭和36年10月全国白紙ダイヤ改正で、従来の、東京~南紀方面への団体列車の他に、東京~北海道方面、東京~九州方面、関西~長野~日光方面の団体専用列車を設定しました。
今回は、こうした団体列車のお話を中心にさせていただこうと思います。

昭和36年3月、南紀観光団体列車誕生
昭和34年7月、全線開通した紀勢本線には、開通当初から「急行那智」が設定されていましたが、さらなる南紀観光の列車として、スハ44系一方向固定シートを回転式に改造した車両が投入される事となりました。
当初の運転区間では、東京~白浜口(現在の白浜)翌日まで車両も停泊、翌朝和歌山線経由で京都、一時間半ほど停車後東京へ

旅客は
東京→新宮・勝浦(観光客はいずれかで下車)列車はそのまま白浜口 (泊)(観光客は全員下車) 
白浜口→東和歌山→京都(観光客は全員下車・前日の観光客を受けて東京に出発) 

注1:(泊)・・・車両も滞泊の意味
注2:運転開始当初は、紀和駅(当時は和歌山駅)で中之島経由となるため進行方向が変更されることに
旅行は5月6日であるが、車両は3泊4日で2編成省略することが出来る。

昭和36年10月の改正で一気に観光団体列車が増えることに

従来の南紀観光号は、伊勢が立ち寄る観光地に加えられ。東京→二見浦行きになりました。(列車は伊勢まで回送)そこで、二見浦及び伊勢神宮を参拝後、白浜へ・・・
旅客の流れとしては、
東京→二見浦・伊勢(観光参拝)→新宮・勝浦(観光客はいずれかで下車、宿泊)列車はそのまま白浜口 (泊)(前日の観光客を受けて白浜口まで運転、観光客は全員下車) 
白浜口→東和歌山→京都(観光客は全員下車・前日の観光客を受けて東京に出発) 

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となっており、若干出発時間がずれたのと、単独運転から急行出雲に併結となり帰京は、京都発京都観光団体専用列車と併結することとなり、単独運転は無くなりました。

東京~北海道向けの列車も設定されました。
当時は青函トンネルが開通して居らず、客車の航送なども行っていませんでしたので、列車としての設定は青森まで、北海道内は新製気動車による臨時扱いと言うことで運転されていたようです。
コースには以下のように、道南コースと阿寒地区を含めた2種類がありました。

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Aコースは、北海道半周コース
Bコースは、南北海道半周コース
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東京~長崎・大分、行き先は二つで一つの観光団体専用列車

東京を出発する九州観光団体列車は、早朝の7:08東京駅を出発、大分6:55、長崎には8:55に到着するダイヤとなっており、早朝から観光できることが特色となっていました。
観光客は、別府で宿泊した後、翌日早朝の列車で、宮崎、鹿児島と宿泊して、長崎を目指すルートであり、長崎周りの場合は、長崎から熊本へ、阿蘇に立ち寄り別府へ、別府で宿泊して翌日の大分発の観光団体列車で東京に帰京するダイヤとなっていました。
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大分周りは九州一周コース

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長崎周りは、長崎・阿蘇コース

経路もユニークだった、信越・日光観光団体専用列車

最後は、関西発日光行きの観光団体専用列車をアップしてみたいと思います。
経路もユニークで、Aコースの列車は大阪→名古屋→長野→高崎→日光という経路ですが、早朝に長野到着後善光寺参詣の後、一気に日光まで行くというダイヤで、高崎からは両毛線を経由して小山経由で日光に入るルートでした。
逆のBコースの場合は、日光から長野までは夜行列車となっており、翌日は長野でも宿泊と言うことで、日光よりも長野の観光を重点とするなど、微妙にそのルートが異なっていました。
観光団体は、この後日光から東京に戻るAコースの場合は、翌日は金星に併結される京都観光団体専用列車に連絡して帰るというダイヤとなっていました。
逆にBコースの場合は、京都始発で、南紀観光団体専用列車と併結される、京都観光団体専用列車で東京に来る列車と対になるように設定されていました。
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このように、ユニークな運転経路を持つ観光団体専用列車が誕生した背景には、経済の復興もあって、観光に対する需要も旺盛になってきたという背景と、こうした団体旅行の需要に国鉄が十分に応えられていないということもあり、あらかじめ団体列車として設定しておくことでこうした需要に応えたものでした。

昭和37年には、旅行斡旋会社の利用債引き受けによる団体観光専用の寝台列車が導入され600番台として区分されることとなりましたが、その辺は次回にでもお話をさせていただこうと思います。


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