- 「さちかぜ」という愛称の歴史
さちかぜと言う愛称は、臨時寝台列車で使われた。
昭和31年運転を開始した、特急「あさかぜ」号の救済列車として、「あさかぜ」号の下り列車は30分後、上り列車は30分前を走った臨時列車で、昭和32年7月20日から8月31日までの間運転されたのが最初とされています。
しかし、「あさ・・」「さち・・」だけの違いのため、誤乗が多発したりしたことから、翌年のダイヤ改正では、運転区間を東京~長崎に変更、列車名も「平和」と改められることとなりました。
東京~長崎間の特急として、「さちかぜ」の愛称は「平和」に変更されることに。
その後、平和は昭和34年には、20系化されることとなり、愛称も再び変更され、「さくら」と改名されることになり、「へいわ」の愛称はお蔵入りすることに。
こうして、「さちかぜ」の愛称はほんとに短期間だけ使われていたわけですが・・・・
- 札幌~旭川間に超急行と言える韋駄天列車誕生
昭和46(1971)年、小樽~札幌~旭川間の電化を背景に、北海道内でも人口密度が高い札幌~旭川間の競争力を高めるため、同区間をノンストップで走る、急行列車が設定されることとなりました。
朝8:00に旭川を出発、夕方の17:40に札幌を出発というダイヤで同区間を1時間37分で結んでいました。これは、当時の気動車特急よりも速く、特急でも主要駅に停車していたことを考えるとかなり思い切った設定でした。
ちなみに使用された車両は711系であり、運転開始初日の車両は以下の編成であったそうです。
- ビジネス客に特化した列車として誕生
この列車が設定された背景には、北海道内における自動車保有台数の増加や、道路の整備(冬期間も通行止になることなく通年運行できるようになったこと)で自動車(自家用車)・バスの利用が増えたこともあり、国鉄としても競争力を高める必要があったのです。
当時の国鉄線という部内紙の記事「こちら営業部長」という記事では、下記のように書かれていました。
一部抜粋
一、きびしさを増す環境
・・・農業の近代化と減反、・・等によって、人口の過疎化が著しく、・・・。しかも、マイカーが急激に増加して、40年度97人に1台の割合が、45年度には、16人に1台となっている。他方航空網の発達も著しく、・・・また、道路網の整備も急速に行なわれ、主要道路の冬期間完全除雪体制の確立は、パス、マイカー、トラックの通年運行を可能としている。・・・
二、旅客営業
このような状況にかんがみ・・・マイカー対策としては、都市間輸送の高速化と短時隔のフリーケント輸送が必要で、本年7月旭川・札幌間97分のノンストップビジネス超急行「さちかぜ」を設定した。その結果は非常に好評で、約100名の誘発を得ることができた
- さちかぜは、特急化で発展的解消することに
さちかぜは、ビジネス向けの時刻設定が功を奏したのか利用は好調で。4年後の1975年7月の改正では、一部の「急行かむい」(3往復と)ともに特急化されることとなりました、
可処分所得増加により、特急選択の指向があること、国鉄自身の増収という背景も有るかと思われますが、増発を含め7往復が設定されることとなり、特急「いしかり」は485系電車1500番台が投入されることとなりました。
可処分所得増加により、特急選択の指向があること、国鉄自身の増収という背景も有るかと思われますが、増発を含め7往復が設定されることとなり、特急「いしかり」は485系電車1500番台が投入されることとなりました。
最後に、
趣味的な部分はここまでとして、以下には個人的に当時の見解を簡単に述べさせていただきます。
wikipedia等を参照しますと、おりしも、PCBの問題も有ったため交流専用電車の投入が遅れたという発言もあります、これは事実としては正しいと思いますが、当局としても増収を急ぎたいという思惑があったと考えます。実際の運転開始は、昭和49(1974)年からの運用開始を目指すとして、485系をひとまず投入しようとしてしますが、結果的には1年間、「特急白鳥」でプレ運転という名目で「いしかり」表示の幕の上から「白鳥」と書かれたシールを貼付していたものが約1年間走りました。
こうした点を考えるときに、当時の組合関係なども考慮する必要があるのでは無いでしょうか。
残念ながら現時点では手元に、当時の動労新聞等の一次資料をと言うべきものがありませんので、推測にしか過ぎないのですが、当時の歪んだ労使関係もこの辺の動きと関係があったと考える方が素直だと考えてしまいます。
特に、新規に車両を開発したとなるとその時点で、面倒な労使交渉などもあったこと、特に北海道地区は伝統的に動労が強い職場であり、運転に関しては非常に強い発言力を持っていたことも考えれば、ひとまず耐寒耐雪装備を強化した485系を投入し、あわよくばそのまま押し切ろうと思っていたように見えます。
こうした点を考えるときに、当時の組合関係なども考慮する必要があるのでは無いでしょうか。
残念ながら現時点では手元に、当時の動労新聞等の一次資料をと言うべきものがありませんので、推測にしか過ぎないのですが、当時の歪んだ労使関係もこの辺の動きと関係があったと考える方が素直だと考えてしまいます。
特に、新規に車両を開発したとなるとその時点で、面倒な労使交渉などもあったこと、特に北海道地区は伝統的に動労が強い職場であり、運転に関しては非常に強い発言力を持っていたことも考えれば、ひとまず耐寒耐雪装備を強化した485系を投入し、あわよくばそのまま押し切ろうと思っていたように見えます。
実際に、昭和50年7月のダイヤ改正は、組合の反対の影響もあり、本来は7月1日に実施する予定であった改正は18日に延期せざるを得ないなど現在では考えられないような異常な労使関係であったことを考慮すれば、一概に公式の資料だけで、判断することは極めて真実をぼやかせてしまう事になりかねません。
当時の公式見解としては、以下のように「とりあえず投入」したと記述されていますので、本当に間に合わないので、ひとまず入れたのかもしれませんし。
当時の公式見解としては、以下のように「とりあえず投入」したと記述されていますので、本当に間に合わないので、ひとまず入れたのかもしれませんし。
そこまで、組合の反対などは無かったのかもしれませんが、その辺を含めていろいろな視点から考えていくことが重要であると考えてしまいます。
交通技術別冊 1975年版 P29
以下引用します。
以下引用します。
5.2函館本線L特急用485系1500番代登場
函館本線の札幌~旭川間にL特急新設計画がたてられ1974年夏から営業開始するために、とりあえず485系特急形交直流電車を一部設計変更して間に合わせることとなり、22両が新製された。この車両は、目下、開発中の特急形交流電車に置き替えられるので一般485系と共通運用できることを条件とし、基礎ブレーキ装置・応急処置システム・主低抗器など一部変更したにすぎず、各形式の定員などは変更していない。
結果的に、従来の485系の耐寒装備を強化した程度(711系のような「雪切り室」を設けなかったことなどが災いして、冬場の運転不能を招くこととなりました。